見出し画像

生の肯定

 ねこっちです。私には、大事にしていることがあります。それは、自分や他人の生を肯定するということです。

 以前、私は「天才にならないと自分には価値がない」と思い、ありのままの自分を否定し続けていました。物理や数学を考える楽しさも、「考えるということは一瞬で分からないということで、それは知能が足りない証拠だ」とその楽しさを否定していました。

 私がその時、なぜそこまで自分を否定していたのかは明らかではありませんが、今の私は、方向が変わり、それまで否定していた自分の「生きる事」を肯定するようになりました。

 本記事は、それに関するお話です。

追記(2024年9月20日、22時):本記事のテーマ「生の肯定」は、愛読書『数学する人生』(岡潔 著、森田真生 編、新潮社)の8ページの次の一文

先行きの見えない現代にあって、力強く生を肯定する彼の思想に励まされるのは私だけではないはずだ。

『数学する人生』|岡潔 著、森田真生 編

から自分なりにインスピレーションを受けたものです。哲学者ニーチェにおける「生の肯定」とは直接的には関係ないことを事前に断っておきます。



過度な謙遜をしない

 まずは、取っ掛かりやすいことを題材にして、私の「生の肯定」がいかなるものかを見ていきます。

 私は、過度な謙遜をしないことをいつも心がけています。例えば、「こんな自分が・・・」「身に余る思いです」などの謙遜はすることはあっても、「こんな凡人ですが」「俺みたいな馬鹿が」などとは絶対に言いません。

 なぜならば、そのような物言いは今日まで懸命に生きてきた自分に失礼だからです。また、自分が学んでいる学問やその姿勢、流してきた汗、楽しかった思いなどにも失礼です。

 私を含め、「人」という存在は「凡人」や「馬鹿」などの言葉で片づけられるほど単純なものではないことを、私は知っています。以前趣味で医学(生理学)を学んでいたことがあったのですが、タンパク質の動態やおびただしい細胞の協調、複雑な神経系などを見ただけでも、その「凡人」とやらがどれほど巧妙ですさまじい奇跡の上に生きているか、驚かされるばかりです。

 医学という人の一面を見ただけでもそうです。ましてや、その人の経験や思い出、人間関係、愛や友情などを考えると、生きていることはすなわち天文学的な奇跡であり、理由は何であれ、もう「凡人」という暴言は吐けません。

 それは無論自分にも当てはまります。そのため、私は過度な謙遜はしないことをモットーにしています。

「自分はダメだ」ではなく、「あの人は凄いな」

 私は、天才を目指していたころは、「自分はダメだ」ということをしばしば考えていました。しかし、もうそれはやめました。

 よほど人に迷惑をかける失敗や、大きな犯罪をしてしまえば、「自分はダメだ」と思っても、その時は仕方がないでしょう。しかし、例えば日々新しいことを学んでいる自分に、「学びが遅い」とか「理解が芳しくない」などの理由で「自分はダメだ」と思うことなどはもうやめました。学問をはじめ、物事への理解は一朝一夕には身につきません。多くの「認識」の種をまき、その上に多くの「実感」の花を咲かせることで、理解は深まっていきます。その途上にいる自分に、端から「ダメだ」というのは、せっかく出てきた芽を摘むような乱暴なことです。

 例えば自分よりも理解のレベルがすごい人を見た時は、私は「あの人は凄いな」と思うようにしています。自分の否定ではなく、その人の肯定で、その人のすごさを表現するのです。

 不等式「A>B」を表現するのに、「BはAよりも小さい」と表現するか、「AはBよりも大きい」と表現するかという違いと同じで、本質的に同じものを表現するのであれば、「自分はダメだ」ではなく、「その人は凄い」と表現するのです。そのほうが、だれも傷つかず、同じことを表現できます。

 さらに、「その人は凄い」と思ったほうが、新たなことを学ぶモチベーションにもつながり、純粋な好奇心を広げていくことができます。


今を楽しむ

 かつての私は、「まず自分の精神的問題を解決してから、今を楽しむのだ」と考えていました。しかし、どうやらそれは逆に考えたほうがうまくいくようです。

 一度自分の人生に悩み始めると、深い迷宮に入ってしまい、苦しくなってしまいます。また、そのような悩みは、過去の嫌な経験のフラッシュバックや、大人になってしまったことなどのどうしても変えられない事に起源を発するものが多く、解決不能なものが多いです。

 そのため、それが解決してから今を楽しもうなどと考えていては、やがて年老いて死ぬその時になってもまだ今を楽しめないままで、今を楽しむことは永久に先送りになってしまいます。

 そこで、そのような問題は放棄し、まず、今を楽しむことをするようにしました。

 今やりたいことは今やる。今の景色を味わう。今にしかない「今」を味わう。今の楽しみ方は様々にあります。

 なかなか今を味わえない時は、以下のつぶやきのようなことを考えると、今の躍動感を味わえます:

 聞こえてくる音、立っている感覚、見えている空の青、・・・様々な「入ってくる情報」に集中してみます。すると、悩みごとで濁っていた頭の中が次第に澄んでくることがあります。

 この感覚は、次の文に書かれているものに近いです:

(前略)ところがふとした瞬間に、関心が移ることもある。勉強をしながら、窓の外の雲の様子に心奪われたり、仕事の帰りに見上げた空の月に見惚れたり。そうして関心の集まる場所が社会から自然界に移る刹那、ぎゅっと肉体のうちに閉じていた「自分」が、広がっていくのを感じることがある。

『数学する人生』|岡潔 著、森田真生 編 p.229


 今を楽しむと、悩みごとについても「何とかなるか」と思える事も多いです。上の引用でいう「自然界」が自分を包んでくれるのですね。

 今までは、今を楽しむ前に、悩みごとをまず解決しようと思っていました。しかし、今というこの時間は、瞬時に去ってしまい、もう戻ることはありません。それならば、今を楽しむその積み重ねでやっていこうと思い、私は積極的に今を楽しむことにしました。

 すると、格段に心が軽くなり、また、眼前も鮮明に輝いて見えるようになりました。


大人であることの肯定

 上記のように「生きること」を肯定するようになった私ですが、その中で一番難しかったのが、「大人である自分の肯定」です。どうしても、「いい年して・・・」とか考えてしまうことがあったり、「子どものほうが結局は純粋なのではないか」と考えてしまったりし、大人である自分をなかなか肯定できずにいました。

 しかし、最近は「大人」という語句を再定義するという形で、その肯定も少しずつ進んでいます。平たく言えば、「あなたにとって『大人』とは?」という問いの答えを自分なりに再構成することで、既存の「大人」の意味から離れることにトライしているのです。

 その核となる考え方は、「大人だからこそ○○できる」というものです。今までの私は、大人という言葉が、何か自分を強烈に規定する「縛り」のように感じていました。例えば、「大人」だから純粋ではない、とか、「大人」だから楽しい時にはしゃいではいけない(みっともない)とか、「大人」だからこの位の人付き合いはできて当然だ、とかという風な具合です。「大人」という言葉に、自分という存在が飲み込まれていたのですね。

 しかし、逆に「大人だから出来ること」もあります。例えば、子どものころは届かなかった高いところのものを、今はとることができます。また、子どものころより速く走ることができます。子どものころは「東京に出かける」など1年に1回あるかないかの大イベントでしたが、今はその気になれば深夜でも行けてしまいます。

 このように「大人だから出来ること」に着目すると、自分の可能性を大いに実感できます

 そして、このアイデアを用いると、先ほどの「大人=縛り」という等式を打ち破ることができます。それは、「大人だからこそ縛りからも自由なのだ」という考え方です。

 先ほどの例でいえば、誰が何と言おうとも、楽しい時にはしゃいでもいいのです。それを誰かが見ていて仮に「大人のくせにみっともない」と言ったとして、その言うことを素直に聞いてしまうのは子どものすることです。大人だからこそ、自分の考えをもってよく、その人の言うことを聞かないことも、反論することもできるのです。(勿論、他人に迷惑をかけないことが前提ですが)。

 人付き合いも、年相応にする必要はどこにもありません。むしろ、自分の丈に合わない人付き合いを無理にして、その人たちに迷惑をかけてしまうほうが、よほどの害です。

 ちなみに、私はお酒を飲むことや、車の運転をすることをしないと決めています。それにはそれぞれ次のような理由があります:

お酒:小さいころ、お酒を飲んで狂った大人(父や祖父など)を大勢見てきたこと、さらにお酒が少なからず体に負担をかけることを知っているため。また、依存癖が少なからずある私には合わないと判断したのも理由の一つ。

車:私は処理速度やリアルタイムでの決断がどうしても遅く(障害特性とも関係あるかもしれない)、人と話す時も紙にメモを取りながらでないと会話が難しいため、リアルタイムで膨大な判断を要する車の運転は、自分にはできないと判断したため。

 自分にできないことはしないこと、これも「大人だからこそ出来ること」なのです。

 大人だから○○しなさい、この年齢になってまだ△△とは何事だ、という社会通念を信じないこと、それを積極的に棄てることも、大人だからこそ自分に与えられた自由なのです。

 また、大人であることの肯定をする一つとして、何でもかんでも「大人」に結び付ける思考癖もやめました。例えば、厳しい現実に直面した時、「これが大人社会の厳しさか~!」と思うことはもうやめました。その見方は、大人であることをマイナスに捉えている視点なので、大人であることを肯定したい私には合いません。そういう時は代わりに、その「厳しい現実」に対して起きたことだけを事実として受け止め、淡々と対処するようにしています

 大人である以上、今さら大人であることを後ろめたく思っても仕方がないです。「いい年して」という言葉のように、年齢に自分を規定されてしまうのは嫌です。子どものころ、誕生日を楽しんだように、ここまで生きてきた自分を誇りに思っていたいです。

 いつか、老人になって顔にしわができた時に、「あれだけ死にたいといっていた自分が、顔にしわができるまで健康に生きてこれた~!」と喜ぶのが、今の私の小さな夢です。

 私はこれからも、大人であることを際限なく肯定できる思想を探究したいです。

最後に

 今回は、「生の肯定」というテーマで、私の思うことを幾つか紹介してきました。私は何の原稿も書かずにこの記事を書いているため、ここで書ききれなかった「生の肯定」の具体例も、当然ながらあることと思います。

 私が以前陥っていた「天才にならねば」という思考は、実はその根底に「天才になれば、穏やかに、マイペースを保ったまま生きられるのに」という思いがありました。当時の自分は、社会の厳しさを知り始め、生きていくことの苦しさを主にフォーカスしていた自分でした。あるネットの書き込みを読んでしまったことも相まって、「社会にもまれること」をひどく恐れ、子どものころのようにただ、楽しく優しい世界を生きていたい、と思っていたのでした。

 その当時は、「天才になること」にとらわれ、結果的には自分の生を否定してしまっていた私でしたが、その動機には、「天才になって、傷つかず、争わずに穏やかに生きたい」という肯定の願望があったのです。その意味では、天才になろうしていたころの自分も、生の肯定をその時の自分なりにしようとしていたという意味では、一貫しているのかもしれません。

 生の肯定に対する探究は、今後も続けていこうと思います。



次回予告:日本物理学会に行ってきたので、次回の記事でその報告をしたいと思います。


 最後までお読みいただき、ありがとうございました。


  ねこっち

いいなと思ったら応援しよう!