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【絵本感想文】100万回生きたねこ

ずっと考えていたことがある。
「ねこは もう,けっして 生きかえりませんでした。」
そう。最後のこのワードがもう何十年も前から頭の中でぐるぐるとしているのだ。
いやそれはもう、そんなの散々色んな人が考察してるだろっ!て話で、この問いはもうそれはご存知の通り、散々、散々、散々、多くの人が考察していて(論文まで見つけた!)皆さまの考えを見るたびに、はぁ〜なるほどな〜と思うのだが、
私の中でいまいちピンときていなかったのだ。

私がざっと見る限り、「愛に気づいたから」「自分以外を愛したから」という回答が多いようだ。
なぜ自分以外を愛したら生き返らなくなるのか?なぜ愛に気づいたら生き返らないのか?というのがわからないのだ。。

私なりに色々調べた結果、どうも輪廻転生説がしっくりきたため、(既に輪廻転生についての考察もあるようだが)仏教における輪廻転生をベースに考えてみたいと思う。正直まだしっくりきていないところもある。がこれは答えがないことを考え続けるという私の癖であり、きっと今後も考え続けるのだ。
しかし仏教は奥が深く、難解であった。今後理解を深めたい分野の一つである。(とにかく用語がわからない笑)
仏教哲学が専門ではないため、知識が乏しいところがあるかもしれないがご容赦いただきたい。

そもそも、「輪廻」(りんね)とはなにか。輪廻説については以下のように示されている。

「私たちの迷いの生存は一度限りではない、生き物は死んでもまた再生してしまう。こうした迷いの生存の連続を輪廻と言い・・・」

仏教・浄土真宗における「輪廻転生」の説示

輪廻とは、死んでもまた生き返ること、迷いの生存の連続のことらしい。

更に、以下のようにも示されている。

「ここから脱出する囚われを自らの中に獲得しない限り、迷いの生存はどこまでも繰り返されている。その生存は生老病死をはじめとするあらゆる苦悩に満ちているので、輪廻は厭うべきことである。輪廻の生存は今世で打ち止めにして、輪廻から解脱することが望ましい」

仏教・浄土真宗における「輪廻転生」の説示

つまり、輪廻とは苦しみであり、輪廻からの解脱(げだつ)こそが仏教の目的であるという。

ではどうすれば、解脱することができるのか。
解脱の意味を調べると、《(梵)vimukti, vimokṣaなどの訳。縛るものを離れて自由になる意》悩みや迷いなど煩悩 (ぼんのう) の束縛から解き放たれて、自由の境地に到達すること。悟ること。とある。

煩悩(ぼんのう)とは、身心を悩まし煩わせる心のはたらきであるり、108個あると言われている。

本に戻るが、
猫は野良猫になるまではだれかの猫であった。
そして飼い主が嫌い大嫌い)だったのである。

「嫌い」という感情は、仏教における煩悩(身心を乱し悩ませ智慧を妨げる心の働き(汚れ)を言う)のひとつとされている。

瞋(しん、梵: dveṣa, pratigha、巴: dosa)は、仏教が教える煩悩のひとつ[1]。瞋恚(しんに)ともいう。怒り恨みと訳される[1]。憎しみ[2]。嫌うこと、いかること[3]。心にかなわない対象に対する憎悪[2][4]。自分の心と違うものに対して怒りにくむこと[5]。

瞋 - Wikipedia

つまり、猫は煩悩に支配されていた状態であり、輪廻における迷いの生存を示していると解釈する。

そしてあるとき猫は野良猫となる。

「ねこは はじめて 自分の ねこに なりました。 ねこは自分が だいすきでした」

きっと猫は、誰かの猫であったときのほうが、物理的に不自由のない生活がを送れていたのではないか、と思うのだ。
餌を与えてもらえる、寝る場所がある、賞賛されることもある。
野良猫になった猫は、食べ物に困ることもあっただろう、危険も多かったに違いない。

しかし、猫は誰かのために生きることをやめたとき、自分を好きになれたのではないだろうか。そして自分以外を愛することができた。

煩悩とはキリがなく、一つ問題を解決してはまた一つと次々に現れるものである。
私たちはいつまでも苦しみから逃れられることはできず、この苦しみが永遠に続くのではないかとさえ思ってしまうことがある。

「ねこは しぬのなんか へいきだったのです」

なぜでしょう?
苦しみから逃れるためには猫にとっては死んだほうが楽だったのではないだろうか。

私たちが煩悩から解放されるためには、「今ここ」がすべてであり、今に幸せを感じることしかできない。

そして煩悩から解放され、今ここにある幸せ、を感じられた猫はついに輪廻から解脱できたのではないか、と思うのである。





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