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ひのきProject@坐禅会に行ってみました

前回の記事で、ヒノキのことを考えているうちに、不思議な思考の化学反応が起きて、茶道や坐禅をやってみるのがいいんじゃないか?というアイデアに至ったという話をしました。室町時代の戦国時代と、現代のVUCA的な時代の類似性と、そこをつなぐ共通のアイデアとしての「茶室」。そして茶室を理解するには、茶道と禅についての理解が必要なのでは・・・という話でした。

そのあと、茶道と禅についてちょっと調べてみたのですが、調べれば調べるほど、この二つは相性が良さそうです。いや、良さそう、というより、そもそもかの有名な栄西という禅僧が中国からお茶の文化を持ち込み、日本で独自の化学反応を引き起こしながらひとつの文化的土壌を形成してきたという歴史があるので、むしろこの二つは切っても切れない関係性にあるようです。

・・・ということで、百聞は一見にしかず、座禅会に参加してきました!

私が行ったのは、近所にある曹洞宗のお寺です。Googleマップで近所で坐禅ができるお寺を探したところ、いくつか候補が出てきましたが、その中で一番近くて、毎週座禅会が行われているところ探しました。坐禅といえば曹洞宗や臨済宗が有名ですが、私の鳥取の実家が曹洞宗の檀家で馴染みが深いため、曹洞宗のお寺を選びました。

・・・そうです、鳥取で暮らしていた小学生の頃、祖父と座禅会に通っていた時期があったんですよね。たぶん夏休みか何かのイベントだったんだと思いますが、朝6時くらいに眠い目をこすりながら起きて、祖父と一緒に薄闇の中を歩いてお寺に行くんです。お寺に着くと、古い木の階段を登って、大きな本堂に入ります。本堂はとても静かで、天井が高くて、立派な本尊がああります。夏なのにひんやりとしていて、お香や木の匂いがします。そこで数十分程度の坐禅をします。住職の服の衣擦れの音、畳の上を歩く音。外の庭で鳥が鳴いて・・・でも、私が一番覚えているのは、坐禅の後で出されるお茶と精進料理?のような軽食のほうでした(胡麻豆腐が美味しかった・・・!)。それにしても、なんで坐禅会に通ってたんでしょう?ごく普通の小学生でしたし、家族が信心深いということもなかったので。ただ、早朝の、両親も兄弟も誰も起きてない時間にベッドから抜け出して、祖父といそいそとお寺に行って、不思議な建物の中で不思議な儀式をして帰ってくる・・・という体験には、なんだか特別なことをしているワクワク感はあったので、それが通っていた動機なのかもしれません。そして、夜更かし気味の中学生になってからは、ぱったりと行かなくなり、私と仏教世界との繋がりは途絶えることになりました。

それから時を経ること30年以上。
まさかこんな形でまた座禅会に戻ってくることになるとは、人生とはわからないものです。


>>坐禅会の予約
まず電話で問い合わせをしてみました。曹洞宗のWebページでは、そのお寺が坐禅会をやっていると書いてあるけど、初めてですし、そもそも本当にやってるのか確かめる必要があると思いまして。電話にはおそらく住職と思われる方が出て、座禅会が本当に行われていることが確認できました。毎週日曜の朝6時から。駐車場は車3台くらい駐められる。当日はジャージなどの座りやすい格好でOK。坐禅は30分ほどで、その後に茶話会がある。初日は作法の説明があるから15分前に来て・・・など、いろいろお話し頂き、さっそくその週の日曜の参加が決まりました。あっさりでした。早起きのハードルはありますが、参加費無料ということで金銭面でのハードルは低くて良いです。茶道のほうも興味があるんですが、あちらは会費が高くてなかなか・・・

>>坐禅会に行くまでの間
予約したのが水曜日でしたので、日曜まで数日の猶予がありました。何をしたということもないのですが、なんとなく家にあった仏教関連の本をぱらぱらとめくりながら、ソワソワしながら過ごしました。小学校の頃の坐禅の記憶があるので、坐禅自体のイメージはなんとなくついていましたが、そこにいったいどんな人たちが集まっているのか、茶話会はどんな雰囲気なのか、どちらかというとそっちのほうが気になりました。新しいコミュニティに初めて入っていく時というのはドキドキするものです。自分が相手に受け入れられるのか、自分は相手を受け入れられるのか。

>>坐禅会@坐禅前の作法
朝5時半に起きて、朝食を食べずに、車でお寺にいきました。正確に言うと、そのお寺には本院と別院があり、坐禅堂があるのは住宅地の中にある別院のほうで、小ぶりの本堂と、その奥に小ぶりの坐禅堂というつくりになっていました(本院は住宅地から離れたところにあって行ったことはありません)。玄関の扉を開けて入り、おはようございますと挨拶をすると、中から法衣に身を包んだ若い僧侶が現れて、坐禅を始めるまでのいくつかの作法を教えてくれました。合掌の仕方、叉手の仕方、坐禅堂への入り方、座る前の坐蒲の使い方、無言の挨拶の仕方、足の組み方、手の組み方・・・よくわからないまま僧侶の仕草の真似をして、気づいたら薄暗い坐禅堂の畳の上で、壁を前にして、坐禅を組んでいました。そして、その後で鐘が鳴ったら坐禅が始まること、もう一度鐘が鳴ったら般若心経と、食事の作法に関する念仏の一部を一緒に読み上げることを教えられました。いよいよ、坐禅の始まりです。その頃には、坐禅堂に他の参加者たちがぞろぞろと入ってきます。住職も姿を現すと、私に一礼して、坐禅の後でお話ししましょうと声をかけてくださいました。そうこうしているうちに鐘が鳴って、坐禅が始まりました。

>>坐禅会@坐禅中の様子
僧侶から「目は閉じずに自然な形で薄目を開けた状態で」と言われたので、ぼんやりと目の前の壁を眺めていました。いろんなことが頭に浮かんできますが、それも無理に払い除けようとしなくて良いとのことでしたので、思考の種があちこち飛んでいくのをそのままにしておきます。会社のこと、家族のこと、先週食べたスープカレーのこと、穴が空いて買い換えようかどうか迷ってる靴のこと・・・こんな俗っぽいこと考えていてよいのかな?他の人は、僧侶は何を考えているのかな?他にやることがないので、思索の糸をどんどん辿っていくしかありません。そうすると、ふと、そとで誰かが雪かきをする音が聞こえ始めました。ガサガサ、ザクザク。冬の朝の6時。近所の人が起きて、夜の間に積もった雪をスコップですくっているのです。そして、私はその近くの坐禅堂で、壁に向かってじっと座って、その音を聞いています。私は雪かきをしている人を認知していますが、雪かきをしている人は私を認知していません。時たま、外の道路の上を車が走って通り過ぎる音が聞こえます。私は車に乗っている人を認知していますが、車に乗っている人は私を認知していません。私は薄暗い坐禅堂で、静かに座って、雪かきの音や車が通り過ぎる音を通して、世界の質感を確認していきます。雪かき以外に聞こえるのは、坐禅堂の空調の音、自分の小さな呼吸音・・・

やがて、鐘がゴーンと鳴り、私の隣で坐禅をしていた僧侶が「お経を唱えます。本を開いてください」と小声で言いました。普通の般若心経と、それから普回向という短いお経をみんなで唱えます。唱え終わると、始めたときと逆の作法で坐禅を解き、立ち上がって、あちこちに合掌しながら、坐禅堂から本堂に出て終了です。

>>坐禅会@坐禅後の茶話会
坐禅が終わると、すぐに本堂のテーブルをみんなで囲んで茶話会が始まります。茶話会と言われたのでお茶が出るのかなと思っていたら、コーヒーでした。住職と、若い僧侶と、坐禅参加者5名。この日は私が初参加ということもあり、軽く自己紹介をした後は、主に住職が私に質問をしたり(なぜ坐禅に来ようと思ったのか?どこに住んでいるのか?坐禅をしてみてどうだったか?など)、私がわからないことを質問したり(作法にはどんな意味があるのか?他の参加者はどれくらい通っているのか?など)、そんなこんなで30分が過ぎてお開きとなりました。

ちょっと不思議だったのが、参加者の方々はほとんど自分から喋ることはなく、住職から何か話を振られたらそれに反応する程度で、参加者同士の会話もほぼありませんでした。みなさんとても物静かな人たちで、なんというか、雨がたくさん降った後の森からそっと出てきた動物のようです。私は興味本位であれこれ聞きたいことがたくさんありましたが、あまり出しゃばると、みんな森の中に逃げ帰ってしまうような気がしました。


以上が坐禅体験レポートです。どんな感じだったか?と聞かれれば、いい感じだった、という答えになりますが、何がどういい感じだったのか、少し言語化してみたいと思います。

それは日常から切り離された・・・というよりは、日常を違う角度から捉えようとする試みのようなものかもしれません。私たちは起きている間に思考や身体を何かしら常に動かしながら過ごしています。車で例えるなら、ギヤを上げたり下げたりしながら、ガソリンをエネルギーとして燃やして、それを熱力学で力に転換して、エンジンを駆動させて、車を移動させ続けます。車は車道を走り、車道は街を通り、街は国土に広がり、国土は・・・という形で、分かち難く世界のシステムに包括された状態で、稼働し続けているわけです。そして、坐禅という行為には、そんな世界のシステムから一時的に離脱して、ギヤをニュートラルに入れるような感覚があります。上司の顔色や、同僚の反応、家族の感情。SNSでの承認や、銀行預金の残高、スマートフォンの通知。いつも気にかけている、準拠している評価承認システムからちょっと足を踏み外す感覚。かといって、世界から乖離したり、疎外されているという感覚ではなく、ただただフラットに、受動も能動もなく、自分が世界に含まれている感覚。例えるなら、夜に雨が降って、石が濡れて、その石の上に蛙がやってきて、じっと月明かりを浴びている・・・つまり、夜はただ夜として広がり、雨はただ雨として降ってきて、石はただ石として濡れていて、蛙はただ蛙としてそこにいて、月明かりがただ月明かりとしてそこに降り注ぐ。それぞれがそれぞれの在り方で世界に参与して、相関しあうが、そこにはどのような意図も戦略も目的はない。そんな世界に含まれている感覚。

うーん、説明するのが難しいです。でもそれが、坐禅をやってみて、茶話会に参加してみて、私が得た感覚です。会社、家族、友人、サークルなど、世の中にはいろんなコミュニティがありますが、坐禅会はそのどんなものとも違っています。普段使う意識の回路を休ませることができて、逆に、普段使わない意識の回路を使ったような気がします。そう、駆動しているシステムが違うので、フィードバックの質も違うし、接続する意識の回路が違います。外側にあるものが内側を照らし、内側にあるものが外側を照らします。ひとりだけど、ひとりじゃない。ひとりじゃないけど、ひとり。うーん、言葉にすればするほど難解になっていきます。もう少し通っていくうちに、もう少しうまく言語化できるようになるかもしれません。

ということで、毎週日曜の朝は坐禅会がルーチーンになりそうです。

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