数の多さで勝負じゃない。
「普通」って、ただの数の多さじゃないの?
なのに、どうして怯えちゃうんだろう…
そして、どうして普通を目指しちゃうんだろう…
私は数学が苦手なはずなのに
どうしてこんなに「数」のことを考え、
恋する乙女みたいに
いつもいつも悩まなければいけないのだろうか。
おかしい。
数の多さが「普通」を作り、
数の少なさが「普通じゃない」を作り出す。
数ってそんなに偉いんだろうか。
絶対なんだろうか。
「レア」というのは「希少な」という意味であり、
「レアなもの」は、とても貴重で価値があるとされる。
しかし、なぜかこれを人間に置き換えると、
「普通じゃない」とされてしまう。
普通じゃない、という視線が向けられる。
なぜ。なぜなのか。
多数決は、物事を決定する時によく使う方法だけれど、
本当にそれは正しいのか。本当にそれは合っているのか。
なんてことは誰にもわからないけれど、
決めなければいけない物事に対して行う、
一つの方法にしか過ぎない。
しかし、これが勘違いの元となる。
幼いころから私も当たり前の様によくやっていた方法だった。
しかし、この「多数決」はただ決定する為の方法の域を超え、
いつからか、
「正しいものである」という判定の意味を持つようになっていた。
実際、そんなわけない。
本当に正しいことなんて、多数決でわかるわけがない。
もしこの多数決の方法を
「これは正しいものである」と決定する儀式だとしたら、
全員が間違っている場合、
「正しくないものが正しい」とされ、
「正しいものが正しくない」とされる。
こうして実に恐ろしいことが、平気で起こることになるのだ。
しかも、誰も気づかないで…
そして、この間違っているかもしれない審判を下した多数決絶対信者は、
「自分たちは間違っているかもしれない」
という可能性に対して、完全に蓋をしてしまう。
絶対開かないように、思いきり蓋を閉める。
そしてその蓋は、二度と開けられないまま終わるだろう。
それくらい数の多さという謎の仕組みは、
簡単に人の脳を騙してしまうものだと思う。
だからこそ、多数決などの数で決めることについては、
慎重になりたい自分がいる。
以前私は、「思い込み」についてこのように書いた。
「思い込みをする人というのは、ある考え方に執着する。
そして、合理的な推測よる決定の域をこえ、それが真実だと頑なに信じる。
自分が正しいと、疑わなくなってしまう。
さらに怖いことに、思い込みには個人と集団とががあるそうだ。
思い込みをすることは、個人の問題だけのように捉われているが、
現実には、「集団的な思い込み」というのもある。」
これは数の多さで決めることの危険性と「集団的な思い込み」が、
同じ危うさを持っているのではないか、と思い危惧している。
「数の多さ」は、
何かを決定する為の一つの手段にしか過ぎず、
絶対的なものじゃないはずだ。
「正しい」「正しくない」じゃない。
そして、普通だとか普通じゃないとか、
そんなものでもないんだ。
もっとちゃんとした方法で使いたい。
そうでなきゃ、
いつだって私たちは数に縛られ、
数の多さで、
「勝負しなきゃいけないじゃないか」
ではまた。