【フランス文学】夏にデュラスを読む
デュラス(Marguerite Duras マルグリット・デュラス 1914-1996)を読みたくなるのは決まって夏だ。
求めるものをあえて手に取っているのかもしれないが、私の本棚にあるデュラス作品の大半は夏あるいはバカンス期間が舞台となっている。
脚本家、映画監督としても多くの功績を残したデュラスの文学作品を、特定のジャンルに分類することは難しい。小説。戯曲。随筆。各一篇がこれら全ての要素を兼ね備えているような、それがデュラスの世界だ。
『夏の夜の10時半』。スペイン、マドリッドからほど近い小さな町で物語は展開する。ペーパーバックながら表紙の写真が魅力的で、手に取らざるを得ないような本、内容も切迫感あるミステリーで離さない。建物の屋上を逃走する犯人の一刻一刻を追う描写、主人公の感情移入そして連れ立っての逃避行の末、酷暑の中の死で幕を閉じる。
『ロル・V.シュタインの歓喜』。夏のビーチの舞踏会。フィアンセを奪われ、フィアンセに裏切られたうら若きロルの辿る狂気の道。折り重なる複数の恋愛と、その主役の語るロル。把握、理解、腑に落ちることは目的ではない、体験自体が主の読書体験とでも言うのか。細い筆の先で肌をなぞられるような異色の小説世界だった。
戯曲の側面が強い作品群は、そこに流れる時間が好きで読んできたと思う。『破壊しに、と彼女は言う』、『廊下に座る男』、『青い瞳、黒い髪』。書かれた物に流れる時間と言うのは、regard、眼差しを追うことでもある。見つめる目に覚える共感、あるいは見られている位置で、その目線に長く居座っていることができるか。その眼差しの存在する世界と感性が心地良いから、読む。映像作品を鑑賞する態度に似ている。
『スクエア』。二人の人物の会話で構成される作品で、後に戯曲化されている。前述の理由からも最も好きな一篇。子守りをしながら日々小金を稼ぎ生きる少女と、色々な国や町を旅し生活してきた行商人。少女は未来に希望を抱き、後者はそんな若者であっただろうが、歳月を経て得たただ日々を送ることの幸福を語る。
足るを知る。今持ち得るもので満ち足りたら、それが最もシンプルで幸せなこと。当たり前のこと。それの満ちる対話で進む一冊がとても身に沁みた。
『タルキニアの小馬』。真夏、酷暑のイタリア。サラは息子と夫、友人夫婦、女友達ディアーナと共にバカンスを送る。海と山に囲まれたこの地で、地雷除去(舞台は第二次世界大戦の後)に携わっていた青年が爆発で死ぬ。両親が来ているが死亡届にサインすることが一向に出来ない。加えてこの時もう一人の男が居合わせていて、サラとの情事がある。
子どもへの愛、夫婦間の絆と軋轢、束の間の冒険、誘惑しかしそれに流れない自身の思考、生きる理由と信条、隣り合わせにある死。常に灼熱を背景に展開される物語の中で、あらゆる問いかけがなされた読書。答えがない。
『ジブラルタルの水夫』は目下読み進めているところ。イタリアはジェノバ、ピサを経て舞台は熱波に見舞われるフィレンツェで、これから陸路あるいは船で、あらゆる冒険が待っているに違いない。
文体と言うのは、作家が作品に流す時間。デュラスの文体、スタイルとはそのようなものだと捉えることができる。
彼女の筆致、それが紡ぎ出す世界、静かに流れる映像のような空間が居心地良く、必ず読みたくなって戻って来る――夏に。