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自分語りその2(中学校編2)

はじめに

一回目では20年以上経っても呪いのように残っていた忌まわしい記憶を並べることで、どうしても変えられなかった自分の性分が見えました。言葉として外に出すことで、モヤモヤも少し晴れたような気もします。
思わぬ効用がありそうなので、引き続き、自分語りという名の自己分析を公の場をお借りしてやっていきます。

まだ平和だった1年生

Rと私

上級生に怯えながらも、まだ自分達は荒れていなかった1年生の頃。私の学年は2クラスで60人未満。幼稚園組と保育園組で数年の差はあるものの、ほとんど変わらない面々で10年前後を共有してきた。ほとんど全員が全員の人物像を把握していた。得意・不得意なことから、友人関係、家庭環境まで。だから田舎の公立校こそ、小学校と中学校で連携をしてクラス替えをすればいいのに、と当時も今も思う。いや、しているところはしているそうなので、もしかすると私の頃も多少はあったのかもしれない。だからこそ、1年生の時、私とRは同じクラスになったのかもしれない。
Rは小学校3,4年の時に同じクラスだった。担任教諭に「お前達みたいなのを犬猿の仲というんだ」と言わしめる程の相性の悪さ。何を間違えたのか、Rが友達と私の家にやってきた時は、流血沙汰の喧嘩になった。あれっきり人は殴っていない。
中学1年でRと再び同じクラスになったが、流石に成長したのか、Rからうざ絡みしてくることはなかった。入学して間もない社会の授業で、班で選んだ国について調べてまとめ、全員で発表するという課題があった。私はRと同じ班で、発表が無事に終わるかどうか気掛かりだった。Rのやる気がないのは相変わらずだったので、Rには一か所だけ発表する部分を担ってもらい、そこだけは忘れないようにと念を押した。発表当日は不安通り、Rは自分の出番を忘れ、私が「国土は?」「GDPは?」と1問ずつRに問いかけ、Rが1問ずつ答える、という形で事なきを得た。

Rにとってはどうでもいいことだったかもしれないけれど、私は数少ない中学での平和な記憶としていつもこの場面を思い出します。その後、学年が上がるにつれて手が付けられなくなっていくRは、"荒れた私達の学年”の象徴的な人物でした。だから余計に印象深いのかもしれません。Rとは同じクラスでいる間に揉めたことはなく、クラス全体がまとまっていました。2年生でRとクラスが別れた後、Rの素行の悪さは友達から聞いていましたし、授業中に教室を飛び出しているのもよく見かけました。Rと私を同じクラスにしておけば、私がRを止められたかもしれないのに、と本気で考えたりもしていました。でも今思えば、小学生の頃のように激しく衝突して、また流血沙汰になっていた可能性の方があるんだよなぁと、自分の傲慢さが恥ずかしくなります。でもやっぱり、きっと放ってはいなかったと思うので、これもまた性分なのかもしれません。

Rは確かに目立って荒れていきましたが、学校に苛立っているという面では、私はシンパシーを感じていました。Rにもう少し理性があれば話が出来るのになぁと、当時から惜しくも思っていました。学年集会だったか全校集会だったかで、Rと何人かが騒いでいたことがあります。煩いな、騒いでも意味ないのに、と思っていたら、学年主任がRを掴んで叱責しました。「何で俺だけなんだよ」とRは何度も叫んでいました。それはごもっとも。私は自分のことのように怒りが込みあがってきました。あの時、私は学年主任に物申さなかったんだっけ。物申す前に、教室へ戻るように促されたんだっけ。何にせよ、怒りはあったのに、助太刀しなかったんだな。あぁ、私は私と一緒に怒ってくれる友達がいなかったって嘆いてたけど、同じだったのかもしれない。怒りはあったのに、どうして声に出せなかったんだろう。

今やRも家族を持って、楽しくやっているらしい。何よりだ。Rに幸あれ。

教師の質

授業の質

私の地元は大変な僻地にある。よって、学校には①新任教師、②定年間際の事なかれ管理職、③問題のある教師しか配属されない。それでも私は担任運だけはあった。小学校は担任運で何とかなったが、中学校は教科制なので、担任運だけがあっても免れない。中には面白かった授業の記憶もあるが、全国の中学校でワースト2位を記録する学力レベルである。ちなみにその時のワースト1位は沖縄のどこかの中学校だった。
英語の発音が酷いのはまだかわいい方だが、電子辞書の発音を提示しているのだから素直に自分の間違いを認めてほしい。そう、自分の非を認めない教師ばかりだった。一番覚えているのは、社会科のS。高校受験を控えていた私は通信教育のテキストからも勉強しており、その内容との齟齬をSに質問した。なんてことはない、授業では歴史の一部分、B→Cの点しか触れていないが、A→Bを経てのB→Cという流れを教えてくれればそれで済む話だった。マニアックな話ではなく、高校受験で必要な程度の知識だった。にもかかわらず、Sは「それは知らないわ」と詫びれも恥じもせずに質問をはね除けた。私はあの時、社会科が大嫌いになった。

弱い教師

学年が荒れていくにつれ、授業がままならなくなっていった。とにかく煩い。授業を聞かずに騒ぐなら、学校に来なければいいのにと毎日思っていた。あまりにも酷いので親からは、行きたくなければ学校に行かなくてもいいと言われたが、どうしてこちらが勉強する権利を放棄しなければらないのかと、意地で毎日登校した。出席日数のこともあるし、意地でも登校してよかったとは思う。
そうは思うが、当時はしんどかった。教師も煩いことに慣れ、自分の声が聞こえるうちは注意をしない。どの授業も煩かった訳ではなかった。A先生の授業が煩かった記憶はない。子どもはちゃんと教師を見ている。隙のある教師は舐められる。
一度、煩さに耐えられなくなって私が教室を出て行ったことがある。新任教諭の授業だった。理科だったか、数学だったかは覚えていない。学生時代は剣道部だったらしいが、気迫を感じたことはなかった。教室を出て行った私を追いかけてきたけれど、何を言われたかは覚えていない。申し訳なさそうな顔をしていた気はする。私は「授業を受けたい」と泣いて訴えた。中学3年の秋だった。
彼女は結婚後、教師を辞めたそうだ。かわいそうに思う反面、生半可な覚悟で教師になってくれるな、とも思う。

高校受験

進路変更

私が県庁所在地の高校へ進学を決めたのは、中学3年の秋でした。それまでは隣町の高校へ行くつもりでいました。転機となったのは中学3年の夏。部活をやっていない私は相変わらず暇で、そんな時に親友と友人Bが塾へ通っているということを知りました。話を聞いているとなんだか楽しそうだったので、私も夏期講習を受けることになりました。塾と言っても大手学習塾ではなく、個人がやっている小規模なものです。町内に塾がないのをいいことに、人間性を疑う料金設定でした。私には言わなかったけれど、実は親も高校から町外へ私を出したかったそうなので、思惑通りと言えばそうなのですが、それにしても高額な授業料を支払ってくれたことに頭が上がりません。家計をやりくりしてくれていた母に感謝です。
そうして通ってみた夏期講習で全道模試を受け、どうやら県庁所在地の高校も受験できる学力があることが判明しました。行けるなら行ってみよう、という軽い気持ちで、私は町を出る為に受験勉強をすることに決めました。1年生の頃から、言いたいことを言うためにはやるべきことをやらなければ恰好がつかない、ということで勉強はしていたのですが、思えばこれも親の教えだったので、上手いこと誘導されていました。
受験を決めた初めのうちは射程内である高校を塾で勧められていましたが、ある公立の進学校をたまたまの縁で見学することが出来、その真新しい校舎と充実した図書室に惹かれ、そこを受験することに決めました。中学3年の秋です。ハードルはぐんと上がりましたが、その事実もあまりよく分かっていませんでした。ただこのままでは落ちる、限界まで努力が必要ということだけ分かっていました。

短期集中

50分に1回10分の休憩、食事、身支度、睡眠、それ以外の時間は常に勉強していました。観たいドラマは友達が全部録画して、買ったライブのDVDも受験が終わるまで観ないと決めて無地の紙袋に入れてガムテープで封印しました。美容室で髪の毛を切ってもらう間も、通信教育の携帯ゲーム機型の学習ツールで勉強。もっと早くから受験を意識していれば、そこまでストイックにやらなくてもよかったのかもしれませんが、なんせ時間がありませんでした。6か月、猛勉強の日々でした。
50分に1回の10分休憩では、好きな音楽を聴きながら筋トレをしていました。一番聴いていたのはB’zです。中でもulra soulは受験当日、試験会場へ向かう車の中で延々とリピートして聴いていた、私の応援歌でした。勉強で苦しくなった時も、「己の限界に気づいたつもりかい?」という歌詞を思い出し、自分を叱咤激励していました。この時期に稲葉浩志節を心身に叩き込んでしまったせいで後々とても生きにくくなるのですが、この時はひたすら歌詞をバイブルに邁進しました。

必死だった理由

自分で決めたとは言え、短期集中だったとは言え、なぜあんなに必死になったのか。勉強がしんどすぎて、受験直前冬期講習の暗い帰り道、目の前を通るトラックに飛び込もうかと塾の仲間達と各々思った程でした。そんな団結は要らんけど、仲間がいるっていいなと思った記憶があります。
それでも励み続けたのは、負けたくなかったのだと思います。志望校に合格できないことは負けでもなんでもないのですが、自分の結果は軽く町中に知れ渡ります。私の中学校では卒業式に、3年生がそれぞれどの高校を受験するか発表されます。卒業式で、です。そしてその結果も、一体どこから流れていくのか、学校の偏差値も校風も知らないくせに、〇〇さんの家の長女は落ちた、受かった、という話だけが飛び交います。田舎のコミュニティは狭くて、みんな暇で、噂話を食って生きているんです。そんな環境だったので、プライドが育ちました。町民の物差しが嫌いなのに、まんまとその物差しで自分の進路を見てしまっていました。母は「私立でも楽しめればいいじゃない」と言ってくれていましたが、私は強靭な頑固者で、何が何でも受かる、と自分を追い込んでいました。

結果、塾の仲間のうち、町外の公立校を志望して合格したのは私だけでした。親友は落ちてしまい、なんて言葉をかければいいか分かりませんでした。居てもたってもいられず吹雪の中走って会いに行きましたが、会ってもらえませんでした。しょんぼりして帰りましたが、会ってもらったところで、私はなんて言葉をかけていたのか。
たかが高校受験かもしれませんが、15歳の意地とプライドをかけた戦いでした。もうあんなに一つのことだけに集中した時間の使い方はできないし、したくもありません。もう二度とやりたくない勉強はしない、と決めて高校へ進学したのですが、その高校が過保護な進学校だったので、勉強から逃れられない日々がまた数年続くことになりました。進学校というものがピンときていなくて、その先の大学もよく分かっていないのに受験してしまったんです。その時点で私の夢は、母のような母親になること、でした。思い切り進路を間違えているのでした。

中学時代を踏まえて

頑張れた理由と結果

深く考えたら意味はなかった受験勉強を一心不乱に頑張ることができたのは、つまらないプライドのおかげだったなと思います。あと迷っている時間もなかった。結果として義務教育を最低限やりきることが出来たので、無駄ではなかったとは思います。進学先で出会えた友達もいるし。そう思わないとやってられなかった高校受験と高校生活があったということもあるんですが。

時間があったけど塾を選んだ

書いていて思ったのは、暇を持て余して選んだのが塾だったんだな、と。自分で決めたトレーニングの他、みんなが部活をしている時間を、私は読書や水泳、声楽、お絵かきに費やしていました。大人になった今であれば、なんて贅沢な時間だったのだろうと思うし、今同じだけ時間を与えられたら、やっぱり読書やスポーツ、声楽、図画工作をします。実際休職中もそうやって過ごしていました。でも中学生の私はそれだけでは暇だとして、塾へ行ったんですね。何よりも寂しかったんだな。自分のしたいことであっても、何年も一人でやり続けるのは当時は無理だったと。
飽きっぽいからなのか、実は一人が向いていないのか。これは今後を考えるのに重要なポイントになりそう。飽きっぽいのは確かなんだよな。一人が向いていないと思ったことがないんだけど、もしかしてひょっとするのかもしれない説がここにきて浮上。ずっと仲間が欲しい、っていうのは中学時代で共通していることなんだよなぁ。

部活に入ったこともある

部活に入ってみたこともあったけど、集団行動が無理過ぎたって話も掘り起こしてみよう。
最初は部活に入っていなかった友達が、5月から女子バスケット部に入って楽しそうだった。この子が楽しいなら私も!と、仲の良い友達が入ったことで安心して、私は1年の夏休み後くらいから女子バスケット部に入部した。この時点もやっぱり、一人で過ごすことよりも友達がいる方を選んでいる。
結果的に3か月くらいで辞めました。理由は2つあって、1つはバスケにはまることができなかった点。小学生の間は全く気付いていなかったけど、私は球技が苦手らしい。バスケのいろはが、どんなに練習を積んでも習得できませんでした。2つ目は、先輩に合わせることができなかったこと。練習で言えば、声出しの際に女バスの高いキーに合わせるのがどうしても気持ち悪くて出来ませんでした。それから先輩に「白いコートを着てくるな」と言われても、従えませんでした。
体育会系が向いていなかったのです。それで気持ちが落ち込んで、学校へ行くのもとぼとぼで次第に元気がなくなりました。あの頃の自分を思い出すと、まるで仕事に疲れていやいや会社へ行っている時のようなメンタルでした。とっとと辞めて正解。仕事ですらないんだから。

つまり、自分に向いていないところに属すると、メンタルがぐずぐずになるらしい。中学生の頃からそうだったんですね。行きたくないところへ毎日行かなければならない状況にはもうならないように、やりたくないことはやらないぞ、と改めて誓います。

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