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家系について

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一族の始祖・岡崎市に在る八柱神社を建立した鈴木甚四郎重辰の先祖・子孫のまとめです。
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記事一覧

【地方史】岡崎宿はずれにて尾張の鯛飯屋が殺害された件①(序章 歴史を遺すことの重要性)

はじめに私は先祖が遺してくれた歴史のピースを集めている。 『岡崎市史(新編・旧共)』を広げてみてほしい、欠村(現 欠町、元欠町、栄町、根石中欠町、および西欠町)の歴史はほぼ出てこない。 歴史が遺っていない理由はその理由のひとつとして考えられる出来事は、明治初期に当時)欠村にて大規模と思われる火災があったためだと思われる。当該村の庄屋を代々務めたとされる先祖の家も然り。 しかし、貴重な書物は蔵に遺すはずだが……そういう疑問は残りこそする。 上記のような事情もあり、集めたピ

【神社/先祖の足跡巡り】知立神社(愛知県知立市)

はじめに前回の記事では、先祖・重辰の弟(衛門三郎重福)が祀官のひとりとなったと伝わっている猿投神社(愛知県豊田市)に触れた。 そろそろ先祖の歴史等に触れたいが、著作権関係の転載許可申請など時間が未だもう少し要る。 そのため、今回も先祖とかかわる場所に訪れた記事になる。 知立神社前置き 歴史に精通されている方には説明不要の古廟。 結城秀康公の母君・於万の方様と所縁ある神社だ。 私達の一族とのかかわりは、重辰の嫡男・重焉(後、平井馬之亟と改め 子は甚太夫かーー)※が結城

【欠町・八柱神社】まとめ(後編)~神仏との付き合い方と先祖が伝えたいこと~

はじめに前回の記事で愛知県岡崎市欠町にある八柱神社の沿革について触れてきた。 但し、上記は今後”定説”や”通説”になる可能性が有る「仮)沿革」だ。 情報は公開した。あとは識者の方々の精査/調査がいつか入るだろう。 その結果がどうあれ、期待したい。 ※八柱神社@欠町を管理なさる宮司さん・氏子世話役の方々と当方は無関係です。当方は上記の神社を建立した人物の子孫のひとりです 先祖が伝えたいこと ①築山殿首塚のお参り神社の参拝作法は東京神社庁様が詳細に記述されている。 該当HP

【欠町・八柱神社】まとめ(前編)

はじめにこれまでも愛知県岡崎市に在る八柱神社@欠町について述べてきたが、ここで現在までに判っていること、また、「いつか書かなければ……」と思案していたことを前編と後編に分けて書いていこうと思う。 それで一旦、八柱神社@欠町に触れることは終了したいと思う。 古書等の読書中に見つけた文言等は、また、まとめて記載出来たらと思う。 ※八柱神社@欠町を管理なさる宮司さん・氏子世話役の方々と当方は無関係です。当方は上記の神社を建立した人物の子孫のひとりです 加えて、先祖の尊厳を護る

大岡弥四郎事件と八柱神社とーー岡崎町奉行・松平新右衛門とは(1)

はじめに私の先祖の縁者に「大賀弥四郎事件」に加担した町奉行・松平新右衛門がいる(という記載が家系図にある)。 しかし残念ながら、松平家や新右衛門についての明確な記述のある文書は一切残っていない。 明治時代初期に当時)欠村で大きな火災があったからだろうか。岡崎市史にも明治時代以前の欠村に関する記述は極めて少ない。そのことから、明治時代の火災の影響が少なからずあるのかもしれない。 新右衛門に対しては、家康公に対する「謀反人」「裏切り」と思う方もいるかもしれない。 しかし、松平

先祖を振り返る【番外編】Side B: 江戸末期~昭和初期 せい と 吉次郎ーーそこから学ぶ『物事の本質』の捉え方

はじめに前回の『先祖を振り返る【番外編】Side A: 江戸末期~明治時代初期 清太郎の時代』の逆の視点。 「せい と 吉次郎」の生き方を分かる限り記す記事になる。 当時の時代背景や身分(仮)、今以上に存在したのであろう格差というものを考えながら読み進めていただけると幸いだ。 出来れば、父・清太郎の視点(憶測)を先に読んでから当記事を読んでいただけると有難い。 重辰の子孫・せい 「せい」は、清太郎とぬいの長女として、嘉永四(1851)年九月十七日に生まれた。 外国に

先祖を振り返る【番外編】Side A: 江戸末期~明治時代初期 清太郎の時代

はじめに江戸時代末期から明治時代初期。 詳しく言及するまでもなく誰もが知る激動の時代だ。 著名人であったり、名を知る武将自身には興味があっても、本来、他人の家系図などに左程興味は湧かないだろう。 しかし、家系図の中に現代人の考え方に繋がる部分がある出来事があったため、また、「黙して語らず」という実直な生き方をしたために誤解をうけている先祖がいることを見つけたため、【番外編】としてそれを記したい。 『父・清太郎』『長女・せい、夫・吉次郎』、それぞれの生き方を2回に分けて書

先祖を振り返る⑤ 重辰の子孫たち

はじめにここまで、戦国武将・鈴木甚四郎重辰の先祖と重辰自身の系譜を辿ってみた。今回は重辰の子孫がどう生きたのか、系譜を用いて辿ってみたい。 理由は次とその次の記事に書く予定の人物に迫りたいからだ。 重辰の子孫 豊臣政権下で行われた刀狩などをはじめとする『兵農分離』の強化からか、その時代に帰農する大名・武将も多かったと何かの書籍で読んだ覚えがある。 重辰の子孫も多くが刀を置く道を選んだ。 重辰の長男・重焉、次男・重尹、三男・重澄と諱(いみな)があるため、兄弟は武士として

先祖を振り返る④ 鈴木重辰と現)八柱神社の建立

はじめに 予想より早くに重辰が『八柱神社』を建立まで辿り着いた。 本来は書きたかったことを大幅に端折ったからだと思われる。 兄弟口論の末に、重辰がどのような理由や伝手を介して桜井村(現:愛知県安城市)から欠村(現:愛知県岡崎市欠町)に来たのか、また、八柱神社を築いたのかを記したい。 桜井村から欠村に移住したわけとは 重辰が同じ三河の国とはいえ桜井村から欠村に移住したのは何故か。 私が所持しているiPadのマップで調べてみたが、現在の整備された道路を歩み11㎞の道のり。

先祖を振り返る③ 鈴木重辰と兄弟(子孫書き為す)

今回の時代 今回は重辰と兄弟のみにクローズアップしたいと思う。 具体的な時代は戦国時代(1500年前半~)。 日々、生きるか死ぬか。 誰が裏切るか。誰が味方か。 各々や各々の国がそれぞれの譲れない正義の下、しのぎを削った時代だ。 特に三河の国。 西に織田。北に武田。東に今川。 強大な武力をもつ3か国に囲まれた小国*1だ。 そしてその小国の中で誰が国を統治するか争う。 一度は松平清康公が三河の国を統一したが、様々な要因で早世。 その後は松平家・家中で統率者闘争が起き、西

重辰の先祖を振り返る②(南北朝~重辰の父の世代:戦国時代)

追記: 誤記ありー2023年10月3日 はじめに詳細は江戸時代*1までの系譜を書いた記事をご覧いただきたい。 補足  *1 正確には武士をしていた先祖:~江戸時代初期 1636年に原本が記載された系譜) お急ぎの方は下記系譜をご覧いただければ幸いだ。 今回追っていく時代今回は鎌倉時代一部(詳細な記載がないため、この記述となる)~戦国時代(1500年代前半)までの系譜を辿る。 具体的には系譜の『純之』から『重則』を辿る。 しかし、『純之』から『重光』まで。時代で言

重辰の先祖を振り返る①(~鎌倉時代後期)

追記:タイトル ~室町時代後期としてありましたが、『鎌倉時代あたり』が正確でした。失礼いたしましたーー2023年10月2日 11:30am  はじめに家系図には清和天皇から記載されているため、清和天皇以降を書いていく。 上記家系図の詳細が以下のとおり。 分からないことしかし、家系図を見ていると首を傾げてしまう記載がいくつか見られる。 ①『源平藤橘』の強調か  前述のとおり家系図の始まりは清和天皇になっている。所謂『清和源氏』だ。本姓では源の氏族ということになる。

戦国武将・鈴木重辰

手元にある資料に基づいた私感です。 『通説』を批判するものではありません。 改めて、整合性などを検証する機会をもてば良いと思っております。 (一部編集 9/24 00:30) ゆっくりと家系図に沿った流れで書くと『八柱神社』創建にたどり着くまでに数か月かかるため、先に私感に基づく結論を記していきたいと思います。 現在の『通説』 失礼ながら、『源平合戦で戦に敗れ……』など、少しずつ先祖が遺した書き物と違うのです。詳細は今後記していきます。 創建した人物・年代は 先祖が