先祖を振り返る【番外編】Side A: 江戸末期~明治時代初期 清太郎の時代
はじめに
江戸時代末期から明治時代初期。
詳しく言及するまでもなく誰もが知る激動の時代だ。
著名人であったり、名を知る武将自身には興味があっても、本来、他人の家系図などに左程興味は湧かないだろう。
しかし、家系図の中に現代人の考え方に繋がる部分がある出来事があったため、また、「黙して語らず」という実直な生き方をしたために誤解をうけている先祖がいることを見つけたため、【番外編】としてそれを記したい。
『父・清太郎』『長女・せい、夫・吉次郎』、それぞれの生き方を2回に分けて書きたい。
今回は『父・清太郎』に触れたいと思う。
それぞれどう思うかを考えつつ、読んでいただけたら幸いだ。
清太郎が生きた時代
清太郎は、
文政二(1819)年に生まれ*1
明治一八(1885)年に六十六歳で卒した。
*1 明確な記載がないため、当方が逆算。±1年の誤差が生じている可能性有
江戸時代、11代将軍 徳川家斉の時代に生まれ、
天保四(1833)年~:江戸時代の三大飢饉『天保の飢饉』
天保八(1837)年:大塩平八郎の乱
嘉永六(1853)年:ペリー来航
嘉永七(1854)年:日米和親条約
慶応三(1867)年:大政奉還
などといった歴史で必ず学ぶ激動の時代を生きたのだ。
『天保の飢饉』。
小氷期や自然災害による大凶作。今は比較的温暖な(むしろ高温多湿)岡崎市でもその被害は少なからずあっただろう。
村を代表する立場として大変に難しい状況・立場にあったことは容易く推察できる。
それが過ぎ去った途端に始まる時代の大きなうねり。
予測できない未来。不安や対応に迫られていたのではないだろうか。
常に困難な選択をせざるを得ない状況の毎日。
その混沌とし、先の見えない未来に不安を抱えながら暮らしていたのではないかと私は推測する。
清太郎の人となり
清太郎を知る先祖が遺した、清太郎の人となりが垣間見れる記述がある。
※現代の表現では好ましくない表現もあるが、記載された時代背景を尊重し、そのまま転記した。ご容赦いただきたい
ここで少なくとも清太郎の時代には『八柱神社』の神守をしていたことがはっきりと読み取れる。
また、村の庄屋が武家の子弟を預かり寺子屋を開いていた、という。
庄屋と言えども農家に武家の子弟が学びに来るものなのか……と思ったが、神守をしていたのであればあり得たのかもしれない。
もう少し先を読んでみよう。
武家の子弟に教育をしたが、当時の時代背景の印象そのままに「おなごには教育は不要」。
せいと妹の伊奈は「学問は不要」ではあったものの「家事、その他付随的な教養(裁縫、礼儀作法、茶華道など)」は求めたと思われる。
清太郎の性格を示す明確な記載はないが、この時代を表すような厳格な家長であったことは推測できる。
清太郎の次の家督
しばらくのちに、せいの母・ぬいの甥。せいから見たら従弟にあたる「吉次郎」を養子(せいの夫)に迎え、鈴木家の跡継ぎとする。
しかし、結果的には、せいと吉次郎は子・森太郎を家に残し、鈴木の家を出てしまう。
せいと吉次郎はふたりだけで吉次郎の家に戻ったのだ。
清太郎は森太郎を自身の次の代として養育する。
実際の養育は祖父母の清太郎とぬいがしたのか、乳母を見つけたのか。
それは記録が残っていないため一切分からない。
しかし、親が家にいない以上、その他の誰かに養育したのであろう。
森太郎を一人前に育て上げなければいけない。
「せいは何を考えているのだ」
「吉次郎がひとりで生家に帰ればよいだろう」
「幼い子を置いて家を出るとは何事か」
「それでも、孫を立派に育て上げなければ」
上記のような考えが清太郎の頭に浮かんだことは容易に想像がつく。
しかし上記は単なる少ない情報で推測した憶測に過ぎない。
果たして、清太郎の心になにがあっただろうか。
まとめ
清太郎と森太郎の日記はないので、全ては系譜や別の先祖が記した日記をみた私の推測・憶測であることは最後に付け加えておく。
これはあくまで「清太郎の視点で物事を見たらどう思うであろうか」とし、記述した。
皆さんの目には「せいと吉次郎」はどのように映っただろうか。
次の記事では「せいと吉次郎」の生き方からの視点で話を進めたいと思う。
逸話
下記のような逸話が残っている。
当時の時代背景を知ることができると判断し、紹介したいと思う。
※先祖が書いた文章のままに記載した。加えて、来客者の名前は理由あって伏せる
岡崎轉馬町。これは現在の伝馬通近辺の事だと思われる。
しかしそれも憶測に過ぎない。
岡崎城から東方向に1キロ程度のエリアのことではなかろうか。そう思っていただければ良いと思う。
私自身も実家より徒歩15分圏内に遊廓があったと伝え聞いてはいるが、現在、そのエリアに住む方の気持ちを考慮し、ここでは伏せておく。
ただ、誤解を生まないように書いておく。
城下町には必ずといって良いほど遊廓はあった(はず)。戦後も続いた『赤線・青線地帯』を含め、色町はどこにでもあったことだけは付け加えたい。
加えて、目を背けてはいけない日本の歴史の一部だ。
しかし残念なことに、その歴史を踏まえても都市開発関連で岡崎市がプロジェクト名らしきものを『QURUWA(クルワ)』としたのは理由があったとしても、城郭の”郭”であったとしても、遊廓を想像する人がいる以上、またその名残がある以上、相応しい名称なのかは私には分かりかねる。
むしろ、理解し難い。
プロジェクトにかかわる方々にとっては「それしかない」「良い名称だ」と思ったのだとは理解する。
しかし、東岡崎駅近くの人道橋とその近くの道の名称が『クルワ橋』『クルワ・ストリート』にならなかっただけでも良かったと個人的には思う。
さて、『廃藩置県』が明治四(1871)年。
事件はその前に起こったのであろう。
「髪の結束が切れて飛んだ」。髷(まげ)の結束(和紙だと思われる)が切れるほど、頭・顔の近くに刀が届いたのではなかろうか。
それは驚く。
驚く以前に、よくぞ冷静に「静かに去ってくれ」と言えたと感服する。
刃物を向けてくる人間に私は冷静さを保つことは出来ないだろう。
その後、この沙汰が裁判ーーとあるが、その年が明治七(1874)年頃。
恐らく徒歩で東海道を進んだのであろう。
約300㎞の道のり。
3年間の江戸・東京滞在。
不慣れな土地で長期間の拘束。月並みな言葉だが大変だったと思う。
また、この時の裁判は現行の裁判システムではないはずだ。明治政府が取り仕切ったのか、江戸時代の名残の奉行なのか、一度詳しく調べてみたい。
清太郎が江戸/東京いる間、以前より言及していた『不審火による家屋全焼』がある。理由は『不審火』と先祖が明言しているため、それ以上は深掘りしないほうが良いのであろう。
それでも、大東亜戦争だけではなく、この機会に於ても貴重な資料が燃えたことは大変に残念に思う。
なにより、未だに『鯛飯』はどこに出てくるのか、どこからきたのか。
私には分かりかねる。
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参照
新編 岡崎市史 中世2
新編 岡崎市史 近世3
レキシペリエンス https://rexp.jp/edo-gengo/
国立公文書館 天下大変ー飢饉
https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/tenkataihen/famine/index.html
気候変動と農業生産─歴史学から学ぶ|日本労働研究雑誌 2022年12月号(No.749) 執筆:武井弘一(琉球大学教授)https://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2022/12/pdf/073-083.pdf
Thanks;
canva様 https://www.canva.com/
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