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先祖を振り返る【番外編】Side B: 江戸末期~昭和初期 せい と 吉次郎ーーそこから学ぶ『物事の本質』の捉え方


はじめに

前回の『先祖を振り返る【番外編】Side A: 江戸末期~明治時代初期 清太郎の時代』の逆の視点。
「せい と 吉次郎」の生き方を分かる限り記す記事になる。

当時の時代背景や身分(仮)、今以上に存在したのであろう格差というものを考えながら読み進めていただけると幸いだ。

出来れば、父・清太郎の視点(憶測)を先に読んでから当記事を読んでいただけると有難い。

重辰の子孫・せい

「せい」は、清太郎とぬいの長女として、嘉永四(1851)年九月十七日に生まれた
外国に目を向けるとロンドン万国博覧会が行われた年だが、日本は江戸時代末期。この2年後にペリー来航がある。

父・清太郎同様に激動の時代を経験した人物だ。

一部、先回の記事と重複する部分があるが「せい」について先祖が記述した日記の一節を引用する。

清太郎は女はわが子といえども「学問の要なし」とて長女せいにも教授されなかった。然るにせいは頭脳明晰にして記憶力も優れていたので武士の講義を庭で遊びながら聞き覚え、武士をも凌ぐ程度の教養を身に付けた。

鈴木清太郎・せい・吉次郎を記した先祖の日記より

寺子屋に立ち入ることができないものの向学心がある子が塀などを挟んで講義を聴く……時代劇などで観たことがあるような場面が脳裏に浮かぶ。
せいも直接的な学問教育を父・清太郎から施されなくても、庭で遊びながら講義の内容を聴き、記憶し、理解していたということか。

余程の記憶力と集中力がなければ出来ることではない。

遊びながら、講義に集中。私には出来ない @ACフォト

せいの夫・吉次郎

吉次郎は、嘉永六(1853)年三月一日に岡崎藩の(と思われる)藩士の子として生まれた
幼名は才一。
元服してから吉次郎と名乗った。

吉次郎の伯母(叔母?どちらか分かりかねる)ぬいが、鈴木清太郎の妻となり、欠村・鈴木家との縁が生まれる。
いうまでもなく、せいと吉次郎は従姉弟同士だ。
現行法でも認められている。個人の考え*1は別とし、特になんら問題はない。

*1 私が頭に浮かんだのは劣性遺伝子。遺伝的な障害が生じやすくなるというデメリット。その著しく極端な例が『スペインのハプスブルク王朝』。ハプスブルク王朝は近親婚を繰り返した極端な例だ。
1代のみの近親婚といった限られた話はよくあること
と思い、近親婚全般を否定するわけではありません。

吉次郎の婿入りとその後

先祖の日記にこう記してある。

吉次郎、縁ありて欠村鈴木家へ婿入りする。

鈴木清太郎・せい・吉次郎を記した先祖の日記より

せいは成人して吉次郎を迎えて婿養子の縁組となる。

鈴木清太郎・せい・吉次郎を記した先祖の日記より

この時には、清太郎の次の代は「吉次郎」となるはずだった。

その時は希望に満ち溢れていたと思います @ACフォト

しかし、今のように個人の自由や個々の尊重のなかった時代。
しかも吉次郎が婿入りした先は「当時は武家の子弟を教育するだけの知識がある家。特に清太郎の跡目」。そういう役割だ。
そのような役割が急に身に降ってきたらどうなるだろう。

ところが教養の差違か家風に合ず数年にして家出する。

鈴木清太郎・せい・吉次郎を記した先祖の日記より

「根性無し」という事なかれ。
今と時代が違う。
家中・村中から常時、清太郎と比較されるのはもちろんのこと、寺子屋の武家の子弟からも随時、清太郎と比較され陰口を叩かれることもあっただろう。
その度に「教養が違う」「家風に合わない」などと耳にしたらどうなることか。
私も逃げ出す。全力でだ。

そして、せいも家を出た。

その時妻せいは幼年に覚えた「忠臣は二君に仕えず、賢妻は二夫に惑はず」のーー(読み取れず)教への壱節を人生苦楽を共にすべくーー(続く)

鈴木清太郎・せい・吉次郎を記した先祖の日記より

上記引用が理由だ。
「読み取れず」の部分は達筆過ぎて読めないのだが、元々の出典は『史記』田単伝であろう。

明記されていないが、父・清太郎、母・ぬいから
「次の夫を」
「それが嫌なら森太郎は置いていけ」
それは言われたのではなかろうか。そうでなければ跡取りがいなくなる。お家断絶だ。

迷い・悩み、その結果に選んだ答えだと私は思う @ACフォト

しかし、せいにも意地や吉次郎への尊敬の念があったのであろう。そうでなければ『史記』の一節を持ち出すまい。
また、家に残れば生活に苦労することはなかったであろう。それを捨てて家を出る。余程の決意だと推察できる。

水車によるーー製造の事業を生業として住所を転々とすること十有余年の苦労を重ねた。
而して後、吉次郎は長男の故を以ってーーの生家に帰り共に後半生を農業を営む体躯極めて強健な人であった。

鈴木清太郎・せい・吉次郎を記した先祖の日記より

※吉次郎の姓や生業は伏せてあります

せいと吉次郎。
苦労を重ね、それでも寄り添い懸命に、また、実直に生きたことは直ぐに見て取れる。

せい:昭和六(1931)年一月二四日卒  八一才
吉次郎:昭和八(1933)年一月二二日卒 八一才

「黙して語らず」。
自分のすべきことを懸命にし、生き抜いた81年の生涯であったと思われる。

ここで伝えたいこと、および、まとめ

今回、「清太郎の視点」「せいと吉次郎の視点」を2回に分けて書いた。
その理由は多くの場合、双方(もしくは関係者全員)の意見や考えを客観的に捉えなければ『物事の本質』は容易に見失うからだ

そう言及するのも、ウェブ記事やSNSでも目にした断片的な情報のみを鵜呑みにし、反射的・感情的に心無い言葉を世界発信している方をよく見かけるようになった。
私自身、インターネット黎明期からネットを使用している。当時の罵詈雑言の程度を当然知っているが、今は度が過ぎると私でも思うのだ。

「清太郎」「せいと吉次郎」。この問題はひとつ。
しかし、視点を変えるだけで物事の見え方が変わる。そのために、先祖の話を敢えて分けて書いた
清太郎の生き方しか知らなければ「せいと吉次郎はなんという人間だ」。
せいと吉次郎の生き方しか知らなければ「吉次郎に対し配慮さえすれば」。
そう考えも変わるだろう。

瞬発的に頭に浮かんだ言葉を一度は飲み込み、多くの意見・情報を得た後に
「自分なりの考え」を持った方が良いと思う。@自作

上記のように『物事の本質』は紐解いていけば大抵「ひとつ」
しかし人によって捉え方は異なる。2人いれば2つの異なった捉え方になるだろう。そして話を聞いた第3者は、共通点・自身の経験といった、より共感しやすい方に共感してしまうのではないだろうか。
これは家・友人・学校・会社・社会・国。規模の大小を問わずどこでも起きる事象だ。

だが、片方の言い分のみを鵜吞みにすることはどうであろう。
例えば2人の口論の場合、自身の経験への類似性(共感)/自分の知人友人/血縁/損得の有無を問わず自分にとって好ましい人物と相反する人の意見を聞くだろうか。
多くの場合、程度の差こそあれ「それは酷い!」と自分に近しい人物に共感し、相反する相手には『レッテルに似た何か』を貼ってしまわないだろうか。

そこで、Cさんの立場になって物事を判別してほしいのだ。
一歩下がる(客観的になる)ことで視野が広がる。双方の意見が聞ける。そして双方の言い分が冷静に聞ける。矛盾や齟齬を見つけられる。
結果、より物事の本質が見えやすくなる。

容易いことではない。
過失が10対0の場合ももちろんある。
しかし感情的になり、吐き出した言葉は簡単には取り戻せない。
ネットの場合、思い込みや一時の感情で心無い言葉を書き込めば『発信者開示請求』もされ得るだろう。場合に依って、開示請求しなくても個人の特定も可能な時代だ。

私は他人様に高説を説けるほど立派な人間ではない。
しかしながら、ここでは詳細には触れられないが、仕事で異なる文化があり・宗教を信仰し・言語を話す海外の人たちと多く接し、相手の背景を尊重した上で意見することを長年かけて覚えた。
また、『人格』と『意見・行動』を同一視しないことも並行して覚えている。
言動に苦言を呈すことに人格否定を混ぜてはいけないし、逆に言動を諫められたことに対し、「人格否定だ!」と捉えることも違うであろう。

昨今、上記のようなことが特にネット上で見かけることが増えたと感じる。
先祖の生き方の例から、見る視点を変えることで見えるものまで違ってくる。これが伝わってほしいと心底思う。

また、一部の一族から誤解を受けがちな「せいと吉次郎」が正当に評価されてほしい。そう願わずにいられない。


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