先祖を振り返る④ 鈴木重辰と現)八柱神社の建立
はじめに
予想より早くに重辰が『八柱神社』を建立まで辿り着いた。
本来は書きたかったことを大幅に端折ったからだと思われる。
兄弟口論の末に、重辰がどのような理由や伝手を介して桜井村(現:愛知県安城市)から欠村(現:愛知県岡崎市欠町)に来たのか、また、八柱神社を築いたのかを記したい。
桜井村から欠村に移住したわけとは
重辰が同じ三河の国とはいえ桜井村から欠村に移住したのは何故か。
私が所持しているiPadのマップで調べてみたが、現在の整備された道路を歩み11㎞の道のり。早いルートでも徒歩では2時間17分かかると表示された。
整備されていない道。
草鞋。家財道具もあれば荷台を押しての移動。
大変な重労働だ。
その理由が系譜にある。
一部、前回と重複する箇所があるがご容赦願いたい。
天文八(1539)年に兄弟口論があり欠村に移住することになった重辰だが、”伝手なくの移住”ではない。
理由は系譜にあるとおり、「松平新右衛門に内縁あるに依て」。
重辰の妻は松平新右衛門の姉だ。妻の実家に身を寄せた、という意味であろう。
『三州諸士出生禄』に欠村 松平新右衛門 とある。
以前にも言及したが、松平新右衛門はこの後に『大賀弥四郎事件』で大賀(大岡)弥四郎殿に加担した同輩の町奉行だ。
他の資料ではこのような記載がある。
本多肥後守忠真殿の欠村・古城の左横に『鈴木墨右衛門』とある。
これは重辰の父・重則の改名後の名だ。
他にも
ここでは『欠ケ村』の個所・柴田殿の横に鈴木墨右衛門・松平新右衛門の名が記載されている。
重則も共に欠村に来たのか、重辰が墨右衛門の名を使ったのか、二代目・墨右衛門としたのかは定かではない。
しかし、桜井村から欠村に移住したのは間違いないと思われる。
私が愛知県図書館デジタルライブラリー様より転載承諾を得たのは、上記のコマだが、有名な武将名もある。是非探していただきたい。
(上記画像の転載などは一切お控えください)
ちなみに私の字で恐縮だが、『衛門』の崩し字のひとつに以下がある。
また、『左』『右』。
例えば、『左衛門』『右衛門』。
私は仕事の都合上、お礼状をしたためることがある。
その都合上、ペン字・習字とかれこれ6年ほど練習をしている。
(まだビギナーレベル)
これもスラスラと読めるようになると良いのだが。
下記リンクは大変に良い参考になると思う。
八柱神社の建立
別のところでは、欠村の別の場所にご神体を奉斎。
社は奥宮と記録されている覚えがある。
1636年に原本を記載した重辰の孫(だと思われる)が
『重辰ーー北山池の峯に社を建て勧請す』と明記している。
これが八柱神社の基礎だと思われる。
どう考えても1539年以降、直ぐのことだと思う。
この理由から、八柱神社の『創建年度:推定)鎌倉時代後期』は考え難いのだ。
その後、鈴木家の氏神であった『八柱神社』(当時は名称はあったのか不明)は、今現在管理くださっている神社さんに所有権が移るまで*1、先祖代々で守ってきた。
*1 江戸末期~明治初期の記載があるため、それ以降。明治時代中期からか神社庁設立(昭和21年)後からか
隠す必要はあるのか
本来は堂々としていれば良い。
私は先祖は先祖なりの正義があったのだと思う。運が味方しなかっただけのこと、としか思わない。
何より子孫が先祖を否定してどうする。
しかし、江戸時代はどうだろう。
徳川氏が築き、およそ260年も続いた時代だ。
その始祖に歯向かった身内がいるのであれば隠す可能性はあるかもしれない。
特に、代々、(その後)村の庄屋を務めた家系だ。
江戸時代は別として弱点……非難されるかもしれない過去は晒すまい。
現に伯父からこう聞いたのだ。
大東亜戦争で焼失したモノだ。
死に面した時にようやく教えてもらえる事とは、これ如何に。
先祖の実弟・松平新右衛門、『寺部城の戦』など東照大権現様に歯向かったということであれば辻褄が合う。
これは単なる邪推にしか過ぎないが。
その後の重辰は
『寺部城の戦』の敵将は諸説ある。
先祖の重辰ではない別の重辰かもしれない。
ちなみに、先祖の重辰が『寺部城の戦』の重辰であった場合、この時、重辰は46歳。(欠村に移住したときは27歳。おそらく数え年)
重辰は誰にも仕えなかったのか、系譜にはなにも残ってはいない。
補足で、天正六年は1578年。慶長三年は1598年だ。
その後、重辰の3人の子が元服し(もしくは生き残り)、
・長男は結城秀康公に仕え
・次男は帰農し家督を継ぐ
・三男も帰農し洞村(現 愛知県岡崎市洞町)に住む
と系譜は続く。
本来はここで止めるべきだが、誤解を受けている先祖がいる。
その人物にたどり着くまで、家系の話はあと3記事程度お付き合いいただきたい。
その先は、主に『寺部城の戦』『築山殿の首塚と岡崎城下町計画』やその背景を考察する内容に変わっていく予定だ。
まとめ
先祖に言いたい。
安心してほしい。もう時代は過ぎ、今は令和だ。
織田信長公の筆まめな人となり、明智光秀公は家臣や領民思いな御仁であったとの新たな研究・検証も進んでいる。
残念ながら、もう徳川の時代ではない。
少なくとも私は戦乱の世を生き抜き、命をつないでくれたことに感謝している。
補足:お礼など
この記事も愛知県図書館デジタルライブラリー様が所蔵する古書から『系譜に書かれた内容との整合性』を見つけ、記事内に画像を転載する上で、必要頁の引用許可を頂戴しました。
大変貴重な書物を閲覧させていただき、また、引用承諾を頂戴いただいたこと。ご高配に厚くお礼申し上げます。
今後とも、何卒、よろしくお願いいたします。
貴重な古書が閲覧できるサイトですが、使用には注意が必要です。
必ず、利用規約に遵守した方法で閲覧/活用ください。
また、私事ですが、
ここでは『敬体(です・ます)』を用いて書こうと思っておりました。
しかしながら、どうしても普段使用している『常体(である・だ)』が出てしまいます。
混在する文は……ですが、何卒、ご容赦ください。
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画像転載
三河堤 巻之四 より
三州諸士出生禄 より
諸大名旗本衆三州生邑跡 より
愛知県図書館デジタルライブラリー所蔵
参照
新編 岡崎市史 中世2
Thanks;
canva様 https://www.canva.com/
ACフォト様 https://www.photo-ac.com/