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わたしを拾ってくれたひとへ⑤

抱えておくことがしんどいときは、こうやってnoteに頼ることにする。

同じできごとに遭遇しても、ひととわたしは同じ反応をするとは限らない。身体的にも精神的にも、それぞれできごとへの捉え方は違うし、反応の出方も違う。全体を大きくみれば傾向はあれど、個々が違っていることが当たり前。
反応がどの程度なのか、どのくらい続くのか、それらも個々で違う。

文章にしてみれば何ということはない内容なのに、実生活ではなかなかそれを受け入れてもらえないことがある。「このようなことが起こったら、ふつうはこういう反応が起きる」というものさしで、ひとはひとをみる。仕方ない。ひとには自分のものさしがあるのだから。「ものさしで測ったりしません」などと声高にいうひともいるけれど、わたしは、そうかな? と思う。自分というフィルターを通すのだもの、ものさしを使わないことを心がけることは大切だけれど、完全に取り払うことはできないと思うし、それがよいことかもわからない。「ものさしで測っていません」という思い込みのほうがよっぽど恐ろしいと思う。

わたしは何とか、世の中で「一般的な会社員」という働き方をしているけれど、気を抜くと道端でさえ涙がこぼれてしまいそうになるほど肉体的にしんどいことが多い。精神的にも、かな。でも、何とか、というか、ありがたいことに、というか、こうしてフルタイム会社員ができている。だれかを養ったり、育てたり、という余裕はなくとも。

まあ要するにギリギリなんだけれど、会社では向上心をもって仕事に取り組んでいるし、仕事は好きだ。やるからには一番になりたいほうで、でも0・100思考が出てきて、ちょっとでもダメになったら一気にモチベーションダウンしたりする。最近はその辺りの自覚はかなり持てるようになってきて、グレーという居心地の悪さも体験できるようになった。

こうして「人並み」(という言葉を、いまは便宜上つかう)の生活ができていることは、ありがたいけれど、そこでこぼれていくものをだれか見つけて、という気持ちになる。「仕事ができているから大丈夫」というのは、本人がそう思えればよいことであって、まわりのこうした評価は自分のつらさやしんどさを無視された気持ちになる。「この症状は出ていないから大丈夫」「これができるから大丈夫」というのも。

同じような体験をしたひとと話をするのは、その辺りの加減が一致したときにはとても大きなエネルギーになるけれども、違いによる何らかの上下を感じたときには大きな隔たりを感じてしまう。相手にそのような意図はなくとも、対岸に置かれたような気持ちになる。
ぼんやりしたことしか書けないのがもどかしいのだけど。

「どのようなトラウマ的な出来事が起きたのか」ではなくて、その人がその状況で「どのような反応をしたのか」を理解することが、トラウマ治療にはもっとも大切なのです。ある人にとっては、トラウマ的な出来事は「ああ、そんなこともあったな」という程度かもしれません。しかし、別の人にとっては、同じ出来事であっても「生命に危険が及んだ」と判断し、それに見合った反応を起こします。
(中略)
これはレストランに行ってメニューを見ているようなものです。ある料理は、ある人にとっては軽いランチだと思えるし、他の人にとってはごちそうがたっぷりのディナーだと思えます。ある人にとってはその料理は美味しいし、他の人にとってはまずいと感じられます。

ステファン・W・ポージェス著「ポリヴェーガル理論入門」より

そう、こう思っていたらいいんだ。これがスタンダードなはずなのに。ピーマンが好きか嫌いか、ホットケーキがごちそうかふだんのおやつか、というのと一緒で。
わたしはわたしの感覚を大事にすればいいだけのことなのに。その思考にノイズが入りがち。

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