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穴ぼこを埋めるnote

ちょっと久しぶりにnoteを書く。少しのあいだnoteから離れていた。理由があって過去の記事も非公開にした。でも、アカウントを消すことはできなかった。消してしまうのはなんでだか寂しかったし、それにnoteは連絡手段のひとつだから。一方通行だけど大切な連絡手段なのだ。

noteから離れていた理由は、以前お別れした彼が関係している。別れたのにわたしの生活にまだ何らかの影響を及ぼしていることについて、そしてそれをわたしが甘んじて受け入れていることに対して、長く見守ってくれている女性(ひよ子さん)から「どうして?」と質問を投げかけられてきた。一度や二度のことではない。どうしてだと思う? どうしてそういう行動を取ってしまうんだろうね? まだ彼のことが好きなの? いまとなっては年単位に渡り、ひよ子さんは辛抱強くわたしに質問を投げかけてくれた。

尋ねられるたび、わたしはその質問にできるだけ誠実に答えようと努力してきた。誠実に答えようとすればするほど混乱する。「好きなの?」と訊かれれば、「好きじゃない」より「100%嫌いではないかもしれない」という答えのほうが嘘がない気がして、そう答える。しかし、それは「まだ好きなんだね」という誤解を生むことになる。そうじゃない。そんなことが言いたいんじゃないんだ。

今回ひよ子さんに問われたとき、わたしは「興味や関心を持ってくれている相手に対して、無下にできない気持ちがあるのだと思う」と答えた。わたしごときに関心を示してくれている人に対して、拒否するなんておこがましいのではないか、という気持ち。拒否することへの罪悪感。罪悪感というか、保身だろうか。

「興味や関心を持ってくれている相手に対して、無下にできない気持ちがあるのだと思う」
「ふーん…」
「ふーんって何?」
わたしの回答に対して、ひよ子さんはあまりしっくりきていないようだった。電話越しだったから見えなかったけれど、彼女は首をかしげていたかもしれない。

「ふーんって何? じゃあひよ子さんのお見立ては?」
わたしは詰め寄った。わたしがどう思うか、どう感じているかは自由だし、なんであれ大切にしていいはずだけれど、外野にいるひよ子さんにはどう見えているのか。「他人からどう見えているか、思われているか」はやはり気になるし、傍からみた意見を聞きたい気持ちもあった。
「うーん、それ言っていい?」
なんだよもったいぶって、と思いつつ、でも何を言われるのか怖い気持ちも同時に生まれる。怖いものみたさとは、まさに。
「うん。大丈夫。きょうはわたし、大丈夫そうでしょ?」

うんとねー、あー、えーとね、などとさんざん言いにくそうな言葉を並べたあと、ひよ子さんは言った。
「代償行為だと思うよ」
「代償行為」
「うん。ピンと来ない?」
「うーんと、どういう意味? 漢字はわかる」
「うん。そうか」
代償行為か…と胸のうちで復唱しつつ、わたしはひよ子さんの言葉を待った。

「穴ぼこをよくないもので埋めようとしてる」
ひよ子さんはそのようなことを言った。よくないものが彼のことを指しているのは言わずもがなだが、穴ぼこというのは抽象的だった。穴ぼこというのは、これまでに満たされなかったもの、例えば愛情などを指すのだろう。もっと広い意味かもしれない。満たされなかったあらゆるものを指すのに、「穴ぼこ」というぼんやりした表現はぴったりなのかもしれなかった。

穴ぼこを埋める健康的な方法を、わたしは知っているはずだ。例えばそれは音楽の演奏だったり、文章を書くことだったり、映画を観ることだったりする。友人と話すことも、ちまちました紙細工をすることも、ありもので料理をすることも、読書することも、図書館や美術館へ出かけることも。
健康的な方法を、つとめて行おうとするわたしもいる。でも、そうでない方法、そうでないどころかベクトルが真逆の行為に引っ張られるわたしもいる。
「みんな、少なからずあると思うよ。そういうこと。わたしもそうだしね」
ひよ子さんはわたしをなぐさめるように言った。なぐさめるつもりはなかったかもしれないが、わたしにはそう聞こえた。そして続けた。
「でも、あなたはその程度がひどいんだよ」
(べつの言葉だったと思う。正確な言葉は覚えていないけど、このような趣旨のことを言った)

「穴ぼこを埋めるのに、そりゃあ、お母さんからもらえなかった愛情はお母さんにもらうのが順当だけど、そうはいかないこともあるし、べつの誰かにもらうでもいいと思うけど。
でも、例えば人からもらえなかった愛情や母性は、自分が誰かに施すことで満たされるかもしれないよ」
ひよ子さんは言った。そうだろうなと思う。誰かに求め続けるのでなく、自分が満たす役目も果たせれば、もっと潤滑に回るのだろうと思う。愛情の自給自足といったところだろうか。

ひよ子さんのお見立ては、ほぼしっくりきて、すとんと落ちた。
けれど、最後に言われた次の言葉にわたしは返す元気がなかった。
「それに、自己理解が深まればお母さんのことも理解できると思うよ」
わたしは黙り、電話口で目をつむった。「何を思ってる? 混乱してる?」
混乱なんてしてない。言っていることはよくわかるよ。よくわかる。

「お母さんのことを理解」か。「気持ちを理解したところで何の役にも立たない」とべつの人にべつの件で言われたことを思い出す。
「お母さんのことを理解」することが目的ではないけれど、自己理解をすすめることは続けてみようかなと思う。その結果、誰かのことが理解できるかもしれないと思う。役に立つかどうかはわからない。役に立つか立たないかが大切かどうかもわからない。

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