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詩人という人
メイ・サートン著『74歳の日記』を読んでいる。
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メイ・サートンはベルギー出身のアメリカ人。小説家・詩人である。日本でも訳された著書はいくつかあるようだ。わたしには初見だった。たまたま出会った作家であり本であったけれど、もっともっと読みたいと思っている作家になった。
彼女は小説家であり、詩人だ。どうやら詩作のほうが長く彼女の本分らしく、この「日記」にも彼女の詩に対する思いや誰かれの詩が引用され登場している。
わたしは文章を書くことは好きなのだけど、詩というものにはハードルを感じてしまう。おそらく憧れが大きいのだろうと思う。満足のいく詩というものを書いてみたい憧れが。小説にも詩にも助けれられてきた。まねごとのように書いてきたけれど、詩はどうしたって自分から離れられずまねごとにすらならない。
詩には終わりがないと感じる。すくなくともわたしにとって。終わりのある詩を書いてみたいと思う。感情や情景が、おさまるべきところにおさまる詩を書いてみたい。詩というものに挑戦すると、ただことばが野放図になる気がしてしまう。わたしのことばの扱いようでは。
この「日記」を読んでまず感じていること、それは、詩人であってもこんなにあっちこっちに感情が持って行かれる日常を送っているのか、ということ。詩人というフィルターを通さずとも、74歳になっても毎日の些末にあれこれ思い悩んだり、過去の記憶というものが厄介だと嘆いたり、飼い猫の有り様に腐心したり、心身の変化に驚いたりかなしんだり喜んだりするものなのかと。詩がうまれる前の、散らばっているさまざまな風景や感情や思考のピースが、そのままに書かれていることに凡人のわたしは救われる思いだった。ああ、世の中に詩を送り出してきたひとも、こうやって一日一日のひとときひとときを、自分が世界の真ん中にちゃんといなくてはと意識しながら生きているのだ。なんだ、彼女も人間じゃないか。詩人といえど、ごはんを食べ、買い物に行き、庭の花に水をやって、ときどき眠れない夜を過ごすのだ。
体が不自由になってよかったことがひとつだけある。何人かの友人が闘っている病気について、自分が健康だったときよりずっと気にかけ、共感できるようになった。日々くり返される小さな喜びや失望を分かち合うことで、互いにうちとけた気持ちになれる。元気いっぱいで健康そのものの人というのは、まったく役に立たない!
詩人だって、こんなに率直にものを書く。
わたしが詩というものをイメージすると、それは上等な豆をネルドリップで淹れたコーヒーみたいに、視覚や聴覚や嗅覚や、記憶や希望や失望や、雨や雲や光や世界のなんやかんやをぎゅっと凝縮して完成させた何か、という、とてもぼんやりしたものを想像してしまう。凝縮して完成している、というのがイメージの大事な部分で、何を集めているのかはそれぞれかもしれない。
でも、気がついたら咲いていた花みたいに、もっと「そこにある」という感覚でうまれる詩もあるのかもしれない。あるいは、宝探しみたいに、庭を掘っていたら偶然出てきたきれいな貝殻みたいなもの。二年ほど前だったか、ある詩人の方とお会いする機会があり、お話を伺った。「いつ、どのような感じで詩はうまれるんですか?」わたしが問うと、その詩人は言った。「机に向かって、さあ書くぞ、と思ったら書けます」と。最初からそのようなスタイルだったのかは知らないが、何かが降ってくるとか、夜中にふと思い立って、というようなものではないらしい。〇時からは詩を書く、とスケジューリングしたら、その時間にきちんとうまれるのだろう。職業詩人とはそういう世界に生きているひとのことを言うのだろう。
いずれにしても、わたしの詩への憧れはやまない。手が届きそうで遠いもの。ひとたび口にすると中毒になるもの。詩と、詩人の人となりを知ると、その憧れは増幅し、自分と重ね合わせては幻滅したり原動力になったりする。こんなに自由であることはこんなに怖いことでもある。