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読書記録:『狭き門』/あの頃のわたしといまのわたし

何かに導かれるように『狭き門』(アンドレ・ジイド作 山内義雄訳)を読んだ。年が明けて、ふと再読したくなり手に取った。
中学のとき図書館で借りて初めて読み、「手元に置いておきたい本」になり文庫本を購入した。幾度もの引っ越しでもこぼれ落ちることなく、いまも一緒に暮らしている本。かといってぼろぼろになるまで読み返してきたかというとそうでもなく、いまでは本棚のすみで翳りすら帯びている。

ひさしぶりに読んだ。

清らかであると同時に、なかなかにつらく、厳しい物語である(清らかであるがために、かもしれない)。初めて読んだ十代半ばの頃、現実逃避も甚だしく夢見がちだったわたしには、このつらく厳しい愛のかたちは憧れですらあった。キリスト教という異国の文化との接触も加勢したかもしれない。物語の内容とわたしの実際の生活との乖離具合が、いっときの麻薬みたいにべつの世界へ連れて行ってくれるような気がしていた。

アリサの潔癖さを見て、「これがわたしの理想だ!」と、そんなふうにも感じ入っていた。わたしのこころのうちを見透かされているみたい。アリサと自分を重ねることで、自分が一緒に清められていく気がしたのかもしれない。

さて、おとなになったわたしはいったい何を感じたか?
アリサ(とジェローム)が求めるひたすらに純粋な愛、アリサの母リュシルの汚れた(けれども、ある種とても人間的な)愛、ジュリエットの切なくこころを痛める愛。仕方ないよなあ、だって人間だもの(みつを)、止められないもの。だれかへの愛を、理知の領域でどうにか収めようとするのは苦しいよなあ。という、なんというか、十代のあの頃に比べるとあまりに一般的で人間的な感想を抱いた。
もちろん、アリサたちのような恋愛への憧れは抱き続けている。だってストイックでうつくしいもの。随所に出てくるロマンチックな仕草ややり取り、会話…そう、あの、紫水晶の十字架のくだりなんかは少女心をくすぐる。

今回、わたしが意外と感情移入した登場人物はジュリエットだったかもしれない。最後のシーンが印象的であることも含め、長く切ない思いを胸に秘めながら子どもを産み育て成熟していくさまは、現代社会に生きるわたしにとってアリサよりリアルだ。

「力を尽して狭き門より入れ。滅びにいたる門は大きく、その路は広く、之より入る者おおし。生命にいたる門は狭く、その路は細く、之を見いだす者すくなし」

アンドレ・ジイド『狭き門』

有名なこの一節を、熱に浮かされたように唱えていたあの頃より、いまのわたしはよくも悪くも傍観者としてこの小説を読むことができる。おとなになったってこと? いや、年をとった? 現実を知った? 夢に逃げなくても生きられるようになった?

それもわたしの変化、changeか。あの頃のわたしを置いてきたわけじゃないから、この変化も楽しんでみようか。

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