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朔
さみしそうだねとスマホに書かれた一文が存外こころに刺さってしまった。そうなんだ、さみしいんだ。さみしさは鳴る、だっけ。細くプリントをちぎるあの音は、いまのわたしのさみしさには不似合いな気がする。もっと小さくてもっとかすかで現実味のない音であってほしい。
さみしそうだね。うん、そうなんだ、さみしいんだ。さみしくて苦しいんだ。いつもなら認めたくないその感情を、そのときは不思議とすっと受け止めて受け入れて、そしてさらしてしまってもいい気さえした。さみしい。自発的に打つ四文字が自分の感情をよりリアルにする。さみしい、なんて感情はタブーだよ。こころの奥のどこかで、いつだかのわたしが言う。きみのさみしいは誰も救わないから。
さみしい、は、そのひとの主観だ。家族と住んでいても、友達が大勢いても、話し相手に困らなくても、隙間を埋めるようにさみしさがひたひたとこころの大事な部分を侵すことがあるように。大勢の中にいるときのほうが、ひとりでいるときより孤独を感じる、なんてよく言うけれど。中学生の頃だったか、このような内容のフレーズを読み腑に落ちたとともに、みんなこんな孤独を抱えながらどうやって平気な顔で生き抜いているのだろう、と感じた。記憶はしずかによみがえる。
さみしい、の渦は手ごわい。カーテンを閉じるようにまわりの声が聞こえなくなっていく。さみしい、以外の自分の感覚が鈍っていく。楽しいとか、うれしいとか、満たされるとか、そういう感覚が。
わたしの中には強烈にさみしがり屋の子がいて、その子にはほとほと手を焼いている。引っぱられるのだ、その子に。その子はわたしの気持ちや生活やタイミングを見計らって、隙間にさみしさを注入するがごとくやってくる。いま生きているわたしのすみずみにまでさみしさを行き渡らせようとする。ほら、これがずっとおれの抱えてたさみしさなんだよ。わかるか? さみしさって苦しいんだよ。おまえと、ユウと一緒にいても、ずっとずっとさみしかったんだよ。ずっとおれは取り残されてさ。ないものにされて、主役の影どころか、日向を歩くユウをおれは遠く後ろから足音も立てずについていくしかなかったんだぜ。
わたしはその子に何も言うことができない。ごめんね、と謝るのも違う。ありがとう、と労わることも不本意だ。だってその子の感じるさみしさは、同時にわたしも感じているから。さみしさは二重になっていまを生きるわたしに押し寄せる。おれがおれがって言うけど、感じて苦しくなるのはまぼろしのきみじゃなくて現実のわたしなんだよ! 知らず知らず気持ちは固まり、わたしはこころの中だけで金切り声をあげる。
そうやって声にならない叫び声を発したあとは、走って走って走ってその場から逃げる。走り去るわたしを見てその子は追いかけてくる。真剣に鬼ごっこをしてるみたいにふたりで息を切らしてさんざん走る。しばらく走り、わたしが、もうだめ、もう走れない、と足元がもつれてきた瞬間、その子はしめたという表情でわたしに飛びついてくる。はっ、次はこの子に何をされるんだろう。わたしはひと回り身を縮める。
「ずっとこうしていたかっただけなのに」
その子は言う。わたしの肩に手を回して顔をうずめるその子は、さっきよりずっと小さく見える。
さみしかったね。
きっと、わたしはその子にそうやって声をかけてやればよかったのだろう。さみしかったよね、よしよし、って。でも、そのときにはまだ、どうしてもそれができなかった。
だから、わたしは、ひとからさみしそうに見えたのだろう。わたしもその子のように誰かを追いかけて、安心して顔をうずめる相手がほしいように、誰かの目に映ったのかもしれない。
もしまた、次にその子が感情を出してくれたら、そのときはそのときのわたしの精一杯を注いでやる。うれしい楽しいで満たさなくても、そのときの精一杯を。さみしいも悪くないよと伝えてやれれば、いちばんいいかもしれない。その子に注いだ精一杯は必ずわたしに帰ってくる。そう信じている。
☆
最近のわたしのなぐさみもの。
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どこかのお庭に咲いていたら、ウオズミまでお知らせください❁