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『欲の涙』16
「敏感すぎて、周縁の思考や潜在的な思考まで拾ってしまう」
フィリップ・K・ディック著)
オレは後部座席で長野の両腕を結束バンドで縛り、身動きが取れないようにしていた。坂本は、飛ばすわけでもなく、かといって、トロく走るわけでもない。
こういう時に一番サムいのは、車から飛び降りるケース。そんなことが起きようもんなら、三上は逆上するに決まっている。
「連れてきてって言ったハズ。死なせろなんてひと言も伝えてないわよ!」と、鬼の形相で迫るだろう。
完全な沈黙。
――運転手の坂本は「話せない」、長野は「話さない」。それぞれがそれぞれの意思を固めたのか、ひと言も発することはなかった。
何も会話のない、車内で過ごす時間はとても長く感じられた。饒舌な坂本が強張った表情をしているのを見、「ただごとではない」と悟った。
流れをよくよく考えてみる。
まず長野は憎堂一家にカオリさんの殺害依頼をした。計算どおりにいけばそのまま殺められたが失踪。で、消えた先はキメセクの「ハコ」。それも憎堂一家のシマだ。ここらへんで複雑になった。
次の幕に進む。
プッシャーの中島と憎堂一家の末端、伊藤が「ハコ」ビジネスで憎堂一家の許可なしにシノギを展開。そのシノギをホストの店長、北条が横取り。
で、今――。カオリさんを殺した、敏腕経営者の今井が出てきた。組長の三上の許可なしに、カオリさんの捜索をオレに依頼してきた、長野に大怒りの三上。
キメセクのハコで人気モノになれればコンカフェ店員になれる、いかにも、現代のヤクザ風なビジネスの罠。そこにカオリさんが自ら飛び込んでしまったのも妙だ。
時系列で出来ごとの数かずを整理していた。
整理し終えると、眠気に襲われた。しかしここはガマン。というか、横にいる長野を目にしたら、眠気が吹き飛んだ――「言えない」ことを多く、オレ以上に多く、知っている。この口からオレに直接吐かせてやる。
こんな思いを秘書に抱くことは当然なかった。
隣が秘書なら気も落ち着いたのかもしれない。利用価値があったから接触しぞんざいに扱った。ところが根は悪いヤツじゃない。どこか寂しくも思えた。
とはいっても「その場」で使って、使い終えたらその場で去る――人間関係は儚(はかな)かったりする。情が移入する前に「捨てる」・「捨てられる」・「引く」のも生き残る道だ。
だが、近寄ってくる人は多くいる。一時的な付き合いに過ぎないのだが。ナツミちゃんのように--。彼女は大親友だった、ジュンちゃんの何者なのか、考えれば考えるほど、ナゾに包まれていった。
地元を捨て、友情をも捨てた、オレの精神を突いてくる。ジュンちゃんは言葉にしないだけで、ナツミちゃんの鋭利な言葉に表されるような感情を抱いていたのだろう。
地元に戻るか、歌舞伎町に居続けるか--。
突然頭によぎった。ナツミの存在が、オレの心を乱しているのは事実。
究極の選択だ。もうオレが出来ることは、こうした事件解決だけなのかもしれない。地元に戻っても、居場所はないと、勝手に諦めていた。
友情がふたたび結びつくことは難しいのかもしれない。そう断念すると、ため息が出た。
静寂に包まれながらアルファードは新宿のほうに進んだ。南口の駅改札でクラクションを鳴らすとAとBの居る、街宣車は別のルートへ走り分かれた。
Cの運転する街宣車はつかず離れずの距離で、歌舞伎町まで進みどこかに車を置きに行った。
Cが車庫に街宣車を入れて、アルファードに乗るのだろう、アルファードは路上駐車をして来るのを待っていた。
無言だ。
ちょうど昼の12時になった。ことは早く済んだと思いたいものの、時間が長く感じられた。とりわけ車内では。たった3時間程だ。
ただ、頭によぎったのは「これから」が長くなること。三上のことだ、何かしら要求してくるだろう。
その相手はオレかもしれない。長野かもしれない。ロシアンルーレットみたいなモンだ。と、考えていた矢先にCがアルファードにやってきた。
「じゃあ、坂本さん。区役所方面の『例の喫茶店』」まで頼むな」
「ああ。離れたところに駐車しとくよ。俺は三上組長からあがってくる話に沿ってしか動けない。
「一緒に、ってのは面倒だな」と、坂本はいつもの太い声ではなく、やや細くなった声調で応えた。やはり三上。あの男と会って話すとなると、誰しもが緊張する。
Cが口を挟んだ。「私は組長の三上さんのところに…」とはつらつと言ったものの、坂本に軽く「行かなくていい」とあしらわれた。
「中山と長野が喫茶店から出てきたら、事務所に戻んな。ちょっと距離あるからタクシー代、ホラ」と坂本は言い、Cは「ウス!」と。
Cはこの温度感に合っていない。
緊張感を読み取れていないんだ。まあ、そういうヤツがいるくらいがちょうどいいのかもしれないが。少しは肩の荷が降りる。気楽だ。
後部座席の窓越しに見る外の天気は快晴。
夏の湿度がなくなりつつあり、秋に移りゆく一歩手前と思えた。比喩的にも、陽の光を浴びずに仕事をするオレらにとっては、太陽がまぶしく映った。オレたちが吸収しているのは、夜の街の「光」、つまりネオンだ。
きらびやかな夜の「光」の数だけ、誘惑がある。
欲がある。悲しみも、絶望もある。
一度入ったら抜け出せない迷路が、通りにいくつもある。こちらを呼んでいるような、経験のない錯覚を覚えるほど、ネオンの光は優しく映る。
しかし、入り込んだが最後。
アリ地獄から抜け出せない。
その道を進んで人生が壊滅してしまった人たちは、目にするだけでたくさんいるのだから、知らないところではもっといるのだろう。コンクリートサバイバルを生き抜くには、建前に踊らされちゃいけねえ。
喫茶店に着いた。
こんな時間にも営業している。大体は飲みつぶれたホストや、スカウトマンがここで、女を店にあっ旋すんだよな。
ヤクの売買もここで。ジャンキーたちは眠らない。貸しが取り立てをする場でもある。昼間のほうが案外目立ちにくいのだ。
坂本は車を店の前に降ろした。
「終わったら電話頼むな、中山」と窓ごしに坂本。
うなずいて「30分で終わらせる」と返し、店内へと向かった。続けてCが長野を引きずり回すように連れ出し、店に運んだ。
喫茶店の前--。アスファルトに血の跡が染み付いていた。
現場検証なのか分からないが、警察が写真を撮っていた。その場に立ち尽くしながら怯える若者。悲しんで涙を流す者は、見る限りいなかった。
野次馬が携帯電話で写真に収めている。
ここで失われた命なんて、エンターテイメントの一つに過ぎないのかもしれない。
この街で消えていった、ほんの一人の命。どこの馬の骨か分からない人に移入する情を、持ち合わせていないのが、現実だ。
その光景を見、轢き殺されたカオリさんが思い浮かんだ。やりきれない気持ち。
オレは彼女を救い出したものの、命までは救えなかった。
無力さを感じながらも、長野に対する憎悪は増していった。
(16了)
※おそらく18〜20で書き終えそうです。
※一つひとつ文字数が多いのにお読みくださり、心より感謝申し上げます