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『いつか王子様が』 (下)
↑(上)
↑(中)
"Once a bitch, Everything is bitch."--ウィリアム・フォークナーの言葉が、皆川の頭に、ふと思い浮かんだ。
「一回ダメになろうものなら、なにもかもが崩れやがる」ーー。店の売り上げが伸びない時期に、バーが薬物売買の拠点になっていた。経営難から立ち直した今は薬物の密売で、損失した分を補てんする必要はない。
それでも、だ。
前に取引していた連中たちが突然、売買をやめたことでイチャモンをつけてくる。秋子の彼氏もその1人。本音は、武治に「どうにかしてほしい」思いがあった。
武治の娘が、皆川の経営するバー、雅で働いている。22歳の女性が、22歳の武治の娘が、キャストとして。今、世の中は不況にあえいでいる。例に漏れず、秋子も不況の煽りを受けた一人。
有事に被害を真っ先に受けるのは、女性なのかもしれない。非正規として働いていたが、かの女は業績不良を理由に契約期間に、解雇された。
日本全国では、清掃業者を民営委託する案が浮上。業者はストライキを蜂起した。「ネズミ」現象。ストの結果、路上にネズミが群がるようになった。
治安衛生は悪化した。ネズミを媒介した、疫病が猛威を振るい、国民の生活は窮地に陥った。失業者や薬物乱用者も増加傾向にある。
娘の秋子の交際相手が覚醒剤中毒者なこと、この店に、今はないのに覚醒剤を買い求めにやってきていること、言いがかりをつけてくること。
酷な現実だ。
本題を最初に切り出したことを、どこかで申し訳なく思う皆川は、暗く照らされている、店内の明かりをやせ細った眼で、みつめる。
ーーこの空間に群がっていた、客たちの熱気、店の活気は、伝わってきた。ところが、だ。武治が来たら、熱気と活気の幽霊たちはどこかへ消えたのかもなーーと、皆川は腹部の痛みを感じながら、考えていた。ーー危ない、放心状態になるところだーー。
「実はな」の意味。
武治にはなんのことか察しがつきそうでつかない。「実はな」は皆川がよく使う言葉だ。大それたことではないのに、言うことがある。どんなカードなのか、思いめぐらす。
恵子のことか、過去の話か、もしくは、都合の悪い条件ーー何かは言われないと分からないーーの提示なのか。いずれにせよ、悪い話を切り出す時によく「実はな」と言うのが、皆川だと知っていた。
二人が徐々に暗くなってゆくバーの中に向かい合って座っている。皆川は、宙を見上げてから一呼吸した。ため息とも、諦めとも違う、一呼吸。
「ストレートに言っていいか?」
「『ダメだ』なんて言えないだろう?教えてくれ」
数秒の思い沈黙が影を落とし、2人のあいだに緊張の糸が走った。ほんの数秒。「ほんの」なのに、両者には長く感じられた。
皆川は切り出した。「実はな、お前の娘、秋子ちゃんがな」と言いかけたところで、「秋子がどうしたって?」と武治はすかさず返した。
「働いているんだよ。ここのキャストとして。話のネックは分かるだろう?」
武治は思いがけず涙を流した。
「秋子」ーー。娘の名前を聞くだけで、心が張り裂けそうだった。名づけたのは皆川だ。それもあってか、かれの発する秋子という三つの音から、様ざまな感情が渦を巻く。かれは今、後悔と情けなさに覆われている。同時に心の中で愛情が根を下ろしていることにも気づく。懺悔と愛情の中間で、かれは涙を流すほかなかった。
1分ほど武治はうつむいて流した涙を隠そうとした。
もちろん、皆川に見抜かれたが。ーー話を進めるか。過去の清算をするのは自分だ。ろくでもない自分。自分に情けをかけてきた、みっともない父親だっただろう?そもそも父と呼べるほど、長く接していない。俺が父を名乗っていいのだろうかーー。
「もう22歳か。キャストとしてだなんて、な。驚いたよ。信じようにも信じられない。『まさか』こうなるとは100万の1も予想していなかったさ」
「秋子さんも大きくなったよ。当たり前だよな。踏み込んだことは訊いていないぞ。どこで育ったか、今どうしているとかはな。ピアニストとして働いている父親=お前から訊いてみる。それか、オレから訊く。どっちがいいんだ?」
武治はすっかりと困惑していた。痙攣した声で「少し考えさせてくれ」。
「もちろんさ」と、皆川が言ったころには、時計は午前3時を回っていた。店内のライトは同じ光量なのに暗く思える。静まり返る時間帯。
二人をまるごと呑み込むような暗闇が、忍び寄ってきている。
武治は悟ったーー。
きっと自分には何かをしなければならない。「何か」の正体は分からない。分かっているのは、大きな試練ということだけだ。
皆川は「何か」を今、突きつけるのはあまりにも酷と思えた。ーーすべてが突然の出来ごと。今日、ホームレスの身を捨て、秋子さんの話をした。それだけで心は傷むハズだ。これ以上伝えるのはよそうーー。
「武治、ここは女性キャスト用の寮がある。ひっそり、バレないように使ってくれ。ここで働いてもらうようならゆくゆく伝えるがな」
「助かるよ。ひとまず落ち着く時間が欲しいな」と言うと、皆川はうなずいた。女性キャストに変態扱いされるのは気の毒だが、提供できる居場所は、キャスト用の寮だけだった。
真夏の空に拡がる雲は、行き先不明に見える。どこへ向かうのだろう?今日は右に、明日は左に、と針路を変えて人の心を惑わす。そう思いながら武治は、夜明けにベッドの中の、沈黙に沈んでいった。
(最終回は次回となります)