『体験格差』を読むとのこと
休日に一緒に出かけたり、自宅で料理や酒を振る舞ってもらったり。仲良くしてもらっている上司との私的な付き合いが続いてはや数年が経つ。
そんな上司家には小学2年生の長男がいる。初めて会ったのは3,4歳の頃か。以来、彼と俺とは、お互い友達としてコミュニケーションをとる関係性を築いている。年齢なりに生意気なところもあるが、俺がプレゼントしたキーホルダーをランドセルにぶら下げてくれたり……とにかくかわいく、子ども嫌いだった俺にすら「子どもを持つのも悪くねえかもな」と思わせてくれる存在といえる。
のだが、彼をみるにつけ、俺は手前勝手に後ろめたさを覚えることがある。
「体験格差」だ。
お受験をし、科学教室に通い、毎週末には車でどこかに遠出し、年に数回は海外へと飛び立つ上司の子。
比して、彼と同い年くらいの頃の俺は、バブル崩壊の余波で家族が一時霧散、習い事をすべて辞め、家族で旅行した経験も数えるほど。それもすべてが国内だ。
恵まれた上司のもとに産まれた子に嫉妬を抱くことはない。自分自身の育ちを引け目に思うこともない……とはいえ、こうした体験の差、ひいては教育的資本力の差を当事者として直視すると、「おふ……」ともなってしまう。
俺は自分の子どもに、どれほどの体験をさせてあげることができるのか……?
そこで読んだのが、まさしく懸念の通りのタイトルの新書『体験格差』(講談社現代新書)である。
『体験格差』は、スポーツ系や文化系の習い事、家族旅行や地域のお祭りなどの参加を大まかに「体験」と定め、「低所得家庭の小学生の約3人に1が1年間体験ゼロ」という問題を検証した一冊。
著者は、そんな体験格差ーー体験貧困の方が適当に思えるーーを放置してはならないと指摘する。体験の有無は子どもの社会情動的スキル(非認知能力)に関係し、子どもたちの将来に対する長期的な影響(格差の再生産を含んだ)があるのが根拠だ。
俺の問題意識としては、0/100の話ではなく、体験の質や頻度の差が子に与える影響の如何……そのグラデーションごとの相関にあったのだが、著者の主張のベースとしては、体験がゼロであることによる問題点、そこにある。
エクスキューズこそあれど、同書の紙幅の大半は、子どもに思うように体験を与えられていない親が語る窮状が占めており、あくまで、体験ゼロ問題がなぜ起こり、体験ゼロの当事者はどのように子育てをとらえており、体験ゼロの解決策には何があるのかといったトピックが中心となる。
著者は改善のためのアイデアとして、自身が代表を務めるNPO法人が行なっている、寄付金を原資として利用できる「スタディクーポン」(提携先の教室等で利用できる)の活用。さらに、社会に住まう我々大人一人ひとりが、コーチになり、講師になり、指導者になっていくことを提起する。
"It takes a village to raise a child"に通じる考えといったシステムづくりといったところだ。
要は、教育の話でなく、社会福祉の話である。言わずもがな、社会的弱者を見捨てない発想はもちろん大切なものだと俺も考える。
が、一方でどこか牧歌的な提案にも思える……。なんだ、俺としては、やはり、体験がゼロでなければオールオッケーというわけではなく、常にそこに格差が存在する……という非情な現実も、いや、非情な現実こそデカい問題に思えてしまうのだ。
教育的投資力である。
教育的投資力の不安ゆえに、出産、子育てに漠然と慄く。
毎日の生活が大恐慌な俺は自分の子どもに、どれほどの体験をさせてあげることができるのか……?
ゼロではないだろうが、親、子ともに満足できる体験をさせてあげることができるのか……?
出産の予定がない今からそんな懸念を抱くのは鬼が笑うことだが、子どもを持つことに希望が持てず出生率が低下する日本社会……俺のように体験格差を懸念している人も少なくはないんじゃねえの。
ひいては、体験の質・頻度の格差がもたらす、成長に関する相関・因果についても調査も重要なんじゃねえの。
なのである。
そして明らかになった、体験ゼロ以外のグラデーションから導き出される相関関係や因果関係は、低所得者にとってさらなる絶望にもつながりそう、ではあるが……。いやはや。