「どもる体」読了。しゃべれるほうが変っていう真理について
「どもる体」という本を読みました。
書いたのは伊藤亜沙さんという東京工業大学の准教授。出版は医学書院で、ケアをひらくというシリーズの作品。
こう書くとお堅い学術書のような気がするかもしれないけど、あたしとしては読み物として十分に楽しめる論文の一種という感じでした。
一見難しそうに感じる分析も、いちいち「ほー!!」と感心するような表現が、グイグイと本に集中させてくれました。
この本を手に取ったきっかけは、職場の上司です。
彼もこの本を読んでレビューを書いてます。
https://note.mu/bitoseiji/n/n7a159bae6f66
(↑面白いほど全く違った感想文です。人の感じ方の多様性を感じます。よかったらこちらもどうぞ(^^))さらに医学書院の方から著者の伊藤亜沙さんとの対談を持ちかけられ、「週間医学界新聞」に写真入りで掲載されました。
彼は自分の専門分野からの学術的な切り口でこの本のレビューを書いたっぽいのですが、あたしは、自分の日常を切り口に思ったことをつれづれに書きたいと思います。
前置きが長くなっちゃった。
あたしたちは、日頃言葉をツールとして使っています。その言葉がどんなふうに相手に伝わるかということをあたし自身はとても気にして日々過ごしています。そして、同じ言語を使う同じ国に住む仲間でさえも、あたしが喋った日本語をあたしが表現したつもりの意味で受け取らないことがしばしばあります。それは「誤解」なんて言葉で表現されてますが、そもそも、言葉なんてもので、人の感情が100%伝わることなんてないのだと思いますし、人と人とは基本的には理解しあっているものではありません。だからこそ、それを意識した上でわかり合う工夫や努力をするし、伝えるすべを考えます。
「吃音」という症状は、今のあたしにはないと認識しています。
ですが、この本に書いてあることが「吃音」もしくはその多様な対処法なのであれば、あたしも実は「吃音」という症状を持ち、それを対処して生きているのかもしれません。
そして、その対処法によってあたしは他人から誤解されたり、自分が思いもしていないレッテルを貼られたり、自分の主体性を奪われているのかもしれません。
このように書くとこの本が他者とのコミュニケーションをどのように行なっているかということを扱っていると受け取られるかもしれませんが、あたしとしては、自己との対話がこの本の本質だと感じます。自分がどんな風に自分と折り合いをつけているのかを紐解くような感じです。
それを「吃音」という切り口から分析している。
思った通りに動けて、思った通りに表現しているもしくは、思わなくてもできると感じている人にとっては少々難解かもしれませんが、きっと多くの人はもう気づいてるはずです。思ってもうまくいかないことの方が多いってことに。
「しゃべれるほうが変」なんです。
人の思いは生ものです。一方で言葉にはある程度の決まりがあります。そもそも自分の中から生まれてくる不安定な生ものを、枠組みを持ったもので表現することに無理があるのかもしれません。だからといって枠組みがなかったら表現できるのかと言われると、それもまた悩ましい状況に陥る気がします。
とかく人とは扱いづらい。
でも、思い通りにならないっていう認識が持てたら、じゃあどうしようかって考えられるんだと思います。
あたしは心身二元論についてはとてもしっくりする考え方だと感じているも者のひとりですから、自分の思いとは裏腹な自分というものの存在について認識もあり寛容です。そしてこの前提は大事。これがあるから時にうまくいかない自分自身と対話をしながら、なんとなくいい感じの着地点を探しながら、自分を生きてけてるんだと思ってます。
それは取りも直さず他者との関係にも言えること。
理解し合えていないという認識が持てた時、あたしたちはどのようにしたらよいだろうとその先を考えることができるんです。
そして、何が何でもじゃなくて、「なんとなく」くらいの、心地よいというかなんとかなってるような距離感で、自己とも他者とも関わって行けるのがいいなぁと思います。