文学コンサルタント
「皆さま、多忙の中本講習会にご参加ありがとうございます。皆さまのような日本有数の企業の取締役の方々に参加していただいて光栄であります。予想以上の参加者の多さに感謝の言葉もありません。さて多忙な皆さまのお時間を無駄に使うわけにはいかないので早速講習に入らさせていただきます。さて今日本の経済は衰退する一方であります。かつて背中を追っていたアメリカには水を開けられ、さらにかつては遥かに下であった中国にも追い抜かれてしまいました。このままだとヨーロッパは勿論韓国にさえ追い越されるでしょう。この日本の衰退については各分野の学者がそれぞれの専門的な見地から論じていますが、私たち文学コンサルタントの意見ではやはり経営者の文化的教養の軽視していたからだと思います。こんな指摘を皆さまに言うのは私としても大変心苦しいのですが、やはりどうしても言わねばならないことです。それに皆さま自身も世界各国の経営者や政府関係者と会話して痛感しているのではないですか?」
講習会の参加者は一斉に俯いた。テレビでその名を観ない日はないだろう各大手企業の取締役連中は自分たちより遥かに若いコンサルタントの指摘に何も言えなかった。
「私の考えでは日本の経営者が文化的教養を軽んじるようになったのはあの田中角栄が総理になったあたりから始まったと考えています。あのあたりから日本人は教養よりも目先の金を優先するようになったのです。しかし金だけあってもそのほかに何もなければ無一文と同じです。金を持つ人間はそれなりの品の良さやステータスを手に入れなければなりません。つまりそれが文化的教養なのです」
ここでパチパチと拍手が起こった。取締役連中は壇上の若者の話を興味深く聞いていた。
「先ほどの言いましたが、今の日本の経営者は教養をすっかり失っています。これは皆さま方に言うのはやはり心苦しいのですが、それでも何度も指摘しなくてはなりません。皆さまの先輩に当たるかつての日本の経営者にはしっかりとした文化的教養がありました。その教養の力で日本の経済をジャパンアズナンバーワンと世界に呼ばれるまでに成長させたのです。しかしそれと同時に田中角栄時代に種が蒔かれた教養軽視の風潮が日本企業全体に蔓延してしまったのです。でも私は希望を持っています。それは皆さまが危機感を持ってこの講習会に集まってくださったからです。皆さまは自分の教養のなさを自覚し教養を身につけなければならないこと自覚してらっしゃいます。知的向上心を持たず金さえあれば教養なんか必要ないとのたまう愚かものよりも、あるいは自分は教養などとっくに身につけている。コンサルなんかにものを教わる道理はないと撥ねつけるプライドの高いだけの人間よりもずっと優秀な経営者です。なぜなら自分の知見を広げるためにこの講習会に参加しているわけですから」
取締役連中はまるで新興宗教の信者のように熱い目でコンサルタントの若者を見つめた。しばらくして彼らの中で一番年かさで地位も一番上の老人が手を挙げてコンサルタントに言った。
「講習の最中申し訳ないが、一つ質問させてもらっていいかね。私は多分ここにいる人間の中で一番年寄りなのだが、情けないことに学歴も資産もなく徒手空拳で会社を興したのだよ。会社は成功して国際的な企業にまでなって私も度々海外に行くようになったのだが、そこでさっきあなたが話したような問題に直面しましてね。通訳を介して話しても彼らの話す内容には全くついていけない事が度々あったんだ。私はそれが悔しくてね。悔しさを紛らわすために現地の風俗で大枚叩いてサービスさせたりしてね。だけどそこの風俗嬢にもバカにされることがあってだね。例えばロシアなんかの風俗嬢はドストエフスキーの事なんか話すのだが、私はドストエフスキーなんぞまるでちんぷんかんぷんで結局そこでも自分の学のなさを思い知らされたのだよ。こんな私でも教養なんぞ身に着く者なのかね。他の参加者のようにまともに大学を出ていれば教養なんか簡単に身に着くものなんだろうがね」
コンサルタントはこの老人の言葉に目を輝かせて答えた。
「何をおっしゃるんですか会長。教養に学歴も年齢も必要ありません。外国の文学者にも学歴のない人は沢山いますし、その中にはノーベル文学賞だって取っている人もいます。むしろ教養を身に着ければ学歴のなさが却って人にプラスのイメージを与える事が出来ます。人は他人を学歴や職種で非常にステレオタイプな見方をします。低学歴の人間を見てああこの人はバカなんだなとか、逆に高学歴の人を見てこの人はバリバリのキャリアだとかそんな風に人物をとらえます。そんな人間が低学歴でとんでもない教養を持った人を目の当りにしたら自分のこれまで培ってきた判断力が確実に揺らぐでしょう。そして学歴もないのにどうしてこんなに教養があるのかと尊敬のまなざしでその人を見るのです。これは私の世代の言葉で言うとギャップ萌えという現象です。会長。私はあなたをそのような人間に変えてみせますよ」
老人はコンサルタントの若者の言葉にうんうんを声を出しながら何度も頷いた。彼は変わりたかった。もう二度と外国の要人にも風俗嬢にもそして自分の社長以下の取締役連中と社員たちにもバカにされたくなかった。
「ではどうやれば教養を身に着けられるのかね。どうしたら他人に、特に風俗嬢にそのギャップ萌えというやつを起こさせることが出来るのかね?やっぱりドストエフスキーを読んだ方がいいのかね?」
コンサルタントは老人の言葉を聞くと人相見のようにジッと彼の顔を見た。そしてしばらくしてから再び口を開いた。
「残念ながら会長はドストエフスキーを読むにはお年を召し過ぎています。ドストエフスキーは基本的に青年の読むものです。読むには精々四十歳ぐらいが限度かと」
「では私は教養を身に着けるためには何を読めばいいのだ!」
会長の悲痛な叫びであった。そこにはなんとしても教養を手に入れて風俗で持てたいという涙ぐましい想いがあった。
「やっぱり会長には漢詩の類がよろしいかと思います。それとフランス語やギリシャ語の詩ですね。さる高齢で亡くなった音楽評論家は晩年に自宅の本を殆ど処分して厳選した二十冊ほどの本を手元に置いておいたそうです。音楽評論家の話しましたのでついでに言いますが、シューベルトの歌曲集のレコードなんかも置いておいた方がいいように思えます。ですが教養のためにそれらを自宅で嗜んでも人にはなかなかアピールしきれないものです。会長。一つご提案があるのですが、会社のご自分の部屋にそれらの書物類を人の目につく所に置いてはどうでしょうか?そうすれば来客者は会長のシューベルトの歌曲が流れる部屋でその書物類を見て尊敬のまなざしを会長に向けるでしょう。まさかこんな成金にこんな教養があったとはと。その客たちに向かってこう言えば誰もが会長を教養人と呼ぶでしょう。さぁ、私に続いて言ってみて下さい。『私は晴耕雨読の生活に憧れていてね。ちょっとした文人趣味さ』ああ!よくできましたぁ!」
「ふふふ、なんか照れくさいね。ちょっと気取りすぎじゃないかと思うのだが」
「いえいえ会長。照れるのは最初のうちだけです。すぐに教養が体中に染み付いて今の言葉も自然に発せられるでしょう」
この若きコンサルタントの言葉を聞いて会長は異様にはしゃいで「講習の途中で申し訳ないが退出する。私は今から教養人になるために行動を起こさねばならないのだ」と言って会場から出て行った。コンサルタントは去り行く会長を出口まで見送ったが、残された他の企業の取締役連中はそのコンサルタントとスキップを踏んで退出する成り上がり企業の会長を冷ややかな目で見送った。
会長を出口まで見送ったコンサルタントが壇上に戻ってきて参加者に向かって待たせた事を詫びて講義を再開すると言った時、今度は別の参加者が手を上げてコンサルタントに言った。
「私も個人的に先生にお尋ねしたい。私は、いや我々全員がそうなのですが、さっきの土建屋の爺さんみたいな無教養な人間ではなくて全員一流大学を出て商社を渡り歩いてきた人間であって当然ながらそれなりに文学を嗜んでいます。思春期の頃に太宰治や夏目漱石にかぶれてそれから森鴎外や幸田露伴なんかも読んで三島大江や村上春樹は勿論、ドストエフスキーやトルストイのようなロシア文学、バルザックやスタンダールのようはフランス文学、ヘミングウェイやフォークナーのようなアメリカ文学まで一通り読んでいるのです。あとサドとかマゾッホとかナボコフみたいなヤツもね。そしてこれが一番大事なのですが、我々の海外の取引先の人間も同じレベルの教養の持ち主なのです。しかし彼らは欧米人。ギリシャ=ローマの文明をそのまま引き継いでいる連中です。その連中に対抗できるだけの教養とは一体どこにあるのでしょうか。勿論、我々には短歌や『源氏物語』に代表される王朝文学があります。ですがその日本文学もギリシャ=ローマから続く欧米文学に比べたらやっぱり見窄らしいものに見えてしまいます。我々が自慢げに欧米文学を語ってもそれを肌身で知っている彼らによくお勉強しましたねと嘲笑されるだけではないですか?といって日本文学や中国の古典文学について語っても、きっと彼らはそんなものは知らんと一笑に付すでしょう。我々は欧米人と長年付き合っていますが、ハッキリ言って彼らは西洋以外のことなどどうでも良いと思っているのです。多様性が叫ばれている昨今ですが実情はこんなものです。そんな我々日本人に欧米人を圧倒し平伏させるだけの教養をどうやって手に入れればいいのでしょうか?」
この某商社の取締役の実体験を語った挑発的にも聞こえる質問を聞いてコンサルタントは黙り込んだ。そのコンサルタントを見て他の取締役はせせら笑った。実際に世界と渡り合っているのは我々だ。お前のような小僧ではない。場は一気に取締役連中による圧迫面接のような状態になった。だがコンサルタントは怯まずしっかりと商社の取締役を見据えてこう答えた。
「ご質問ありがとうございます。貴重なお話もお聞かせいただき勉強になりました。しかしです。先ほどたくさんの文学者を並べて持論を仰られていましたが、今ここに残っている方々は皆さん非常に教養のある方ばかりで、先程退出された方のようなおつむのよろしくない方はいないのでもう正直に申し上げます。ハッキリ言って今挙げた作家の殆どは読む必要はありません。 何故なら彼らの文学はミソジニーだからです。彼らの文学は男性中心主義でそこに別の性は排除されているのです。人間には男女に代表される二つの性の他に当人によって自認された性が無数に存在するのです。今挙げた作家の小説にはその事実が一つも描かれていません。それは時代の限界だという言い分はあるのでしょうが、そんな時代の限界を越えられなかった文学など今の時代に読む必要などあるのでしょうか?今の時代に必要なのはミソジニーを打破し新たなる多様性を築き上げる事なのです。とりあえず今挙げた作家の中では紫式部だけが読むに耐えます。何故なら彼女はミソジニーがもっとも甚だしかった時代で男たちによって虐げられた女性の憐れみを描いたのですから。とにかくミソジニーなどうんこも同じ、味噌もクソも等しくゴミなのです。皆さん外国ではこういう考えが主流になりつつあります。だから皆さんも欧米人に受け入れられるために今こそ多様性を学びましょう!とにかく味噌はクソ!
熱狂するコンサルタントはそれからも味噌とクソについて延々と語ったが、参加者の頭の中にはもうミソジニーすら入らず味噌とクソで埋め尽くされてしまった。
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