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死体解剖としての芸術鑑賞

 さてもうすっかり忘れたが、以前私は芸術の永遠性など幻想だとコメントに書いたと思う。まぁ、このコメントは少々言葉が足らなかったとは思う。私が芸術の永遠性が幻想だと書いたのは物理的なものではなくむしろその精神性である。

 美術を例にあげてみよう。まずはルネッサンスの絵画についてだ。二十世紀の末にルネッサンスの絵画が大々的に復元作業が行われた。ダヴィンチやミケランジェロなどのルネッサンス絵画は描かれた当時に近い形で復元され、現在は我々はその絵画を鑑賞することができる訳だが、しかし美術史家や研究者以外のごく普通に復元前の絵画に親しんでいた人々はその復元された絵を見てどう思っただろうか。やっと完全なものを見た喜びより、違和感が先に来たのではないか。この気味が悪いほど色鮮やかな絵画は自分たちがいつも観ていたダヴィンチやミケランジェロとは違うという思いが先に立ったのではないか。

 次はギリシャ彫刻について書こう。造形の素晴らしさと共にその大理石の白さが讃えられ、かつてはその白さがギリシャ彫刻の美学であるように語られていた。しかし本来のギリシャ彫刻は影響を受けたエジプト美術のように極彩色に塗られていたのだ。しかし十九世紀の美術史家たちはそれを認めずに色が塗られた彫刻は例外的なものだと認めなかった。ギリシャ彫刻が着色されたものだという事が認とめられたのはようやく二十世紀に半ばになってからである。何故このような事態を招いたのか。美術史家たちは恐らく当時の美術史家たちの白豪主義からくるギリシャ彫刻は白くあらねばならぬという思い込みや、ギリシャ=ヨーロッパ文化からエジプトやペルシャなどの他文化を排斥したいという考えがあったからだと語っている。しかしそれでも我々はギリシャ彫刻の造形に見惚れその白さに陶然とする。それは現在展示されているギリシャ彫刻がそのようなものばかりであるのと、我々がそれを美しいと思うからだ。

 ギリシャ彫刻と似たような例として日本の仏像が挙げられるだろう。東大寺の大仏など古代中世期に造られた仏像は皆金箔が塗られていた。しかし今ある仏像にはどれも金箔など塗られていない。今それらの仏像を全て元の金箔入りの仏像に復元したらきっと大半の人はひどく悪趣味なものだと思うだろう。

 このように美術作品は時に時代の思潮の影響を深刻に受けて時に深刻な錯誤を起こしてしまう。美術はものであるからこのように時代の価値観によってこれほど劇的な美学の変化が起きるのである。しかも美術というのはどんな名作であろうが作品が消滅してしまえばそれで終わりである。我々は二度とその作品を観ることは出来ないし、その作品がどれほど素晴らしいか文章や現代だったらその作品を撮った写真やコピーなどで想像するしかないのである。

 それに比べたら音楽や文芸は遥かに恵まれているといえる。音楽や文芸は共に視覚ではなく思考や感情に訴えるものだからだ。形のないものであるから美術ほどあからさまに時代の価値観の変化による美学の変化を受けず、また時代によって極端に価値が変わるわけではない。だがそれでも音楽や文芸も時代の思潮によってその価値を変えてしまうものだ。J.S.バッハの死後の急激な忘却と、時を経ての復活。西洋文化によってただの無形文化財とかした各地の民族音楽。音楽もまた美術と同じように楽譜や録音・再生機材の類がなくなったらそれで終わりである。文芸もまた同じである。文芸は確かに文字さえあれば成り立つものであるし、純粋に思考の芸術であるから周りの状況に反映されにくいと思われる。だがそれでも、いやむしろそれだからこそ時代の思潮に影響されその作品の価値が上下するのである。ギリシャから近代に至るまでの文芸の歴史の中でかつて傑作として同時代から今では誰にも読まれなくなった作品は無数にある。我々が読んでもつまらぬと感じた作品もその時代に於いては誰もが認める傑作であったのだ。また文芸も美術や音楽と同じように消失を完璧には免れない。ギリシャから中世、近代から現代にかけて過去に存在した無数の作品がこの地上から消え去っていった。我々は『サテュリコン』をすべて読むことは出来ないし、その他ギリシャ=ローマの消失した名作を読むことは出来ない。現代でもたとえばWEBなどに書かれている文章の類などは全てのサーバーなり、データを納めている自分のPCが壊れたりしたら二度と見ることは出来ないのだ。我々はその消失した作品が傑作である事をどうやって確かめれば良いのか。それはもうその作品について書かれた文献などを読んで傑作であったろう作品について想像を巡らすしかないのだろう。それに言語自体が歴史の流れによって忘れさられ、その言語で書かれたものが文芸として傑作であるのか確かめる術がないという事態も起こりうる事である。インドにはかつてインダス文明があった。その文明は文字を発明し、石碑に文字を掘っていたようだが、現在の我々はその文字を理解する事ができず、たとえそこに文芸において重要ものが書かれいたとしても我々はその内容を理解できないのである。

 なんだか無駄に前置きが長くなってしまったが、私がこの記事で主張したいのは冒頭に書いた通り芸術の永遠性など幻想に過ぎないという事である。その芸術の永遠性というものにしろ近代人の考えたものに過ぎないのではないか。それまで王侯貴族や金持ちなどのパトロンのためにせっせと作品を仕上げていた絵描きや、音楽家や、文人が自らを芸術家だと主張するようになったのは近代に於いてである。勿論それまでにもパトロンの言う事を聞かず我を通りものは何人もいた。しかしその彼らが芸術家として大手を振って闊歩するようになったのは十九世紀以降なのである。それは現在も変わらないように思える。しかしこれからAIなどが一般化し芸術が工場のように機械的に提供されるようになったとしたら再び価値観の大変動が起きるだろう。

 なんだかこれ以上書き続けてもしょうがないので、いきなり本記事の結論を書く。本当は前置きなんか削除して結論を書きたかったのだが、しかし自分は壊滅的にものをまとめる能力がないのでこうしてグダグダどうでもいい事を書いていたのである。ざっと結論を書くとハッキリ言って芸術というものは作品を書いた人間が死ぬと同時に死ぬのである。芸術というのは常に作者と作者が生きた時代のものである。作者が生きた時代の状況や思潮などがその作品には込められている。それは絵画の色彩や音楽の一音や文芸の言葉でさえそうだ。作者がそれに込めた意味を理解できなければ我々はまるで見当違いの解釈をする羽目になる。かつて小説家のスタンダールは自分の作品が読まれるのは百年後だといったような事を発言した事がある。また画家のエゴン・シーレも同様の言葉を残している。しかし彼らが想像した未来とは現代の我々のようにAIに小説や絵画を描かせるような未来だっただろうか。きっと彼らの想像した未来とは自分が生きている時代の延長でしかなかったのではないか。文芸評論家の中にフローベールが映画を発明したと論するものがいる。これは別にフローベールが撮影機器を発明したという事ではなく、フローベールの小説の構成が映画に似ているという事だが、これは後世から見た結果論的なものに過ぎない。結局の所スタンダールもフローベールもエゴン・シーレも同時代の人間に向けて描いたのであって決して未来に生きる我々のために描いたわけではない。しかし我々は生まれる遥か前に描かれた彼らの作品に接して傑作と感じるし、あるいはまるで自分のために描かれたような作品だと思う事がある。それは彼らの作品が今も生きているからではない。先に書いたように芸術は作者と共に死ぬ。それは死んで物理的、あるいは概念的にものとなるのだ。我々今がその作品に接してその作品について語る行為は一種の死体解剖である。かつてコクトーは芸術は死んでから生きると言った。それを私なりに解釈すれば芸術とは作者の死で死体となり、その中でも後の世の人間の好みに合う死体のみが傑作としての名声を得続けるのではないだろうか。とある芸術家が死に同時代の関係者やその次の時代の人間が彼の残した死体を解剖しそれがダイヤのように飾られるに相応しいものであるかを判定する。その過程で振り落とされる作品もあるだろう。しかし後世の気まぐれによってそのミイラは輝かしいものとして再び我々の前に登場する事もあるだろう。それもこれも作者に全ての原因はなくもっぱら後世の気まぐれによって蘇らされたり、葬られたりするだけだ。勿論大半の芸術という名の死体はそのまま打ち捨てられるか、燃やされたりして消失するだろう。芸術鑑賞とは死体の価値を見定める行為である。結局作者の人生に関するエピソードも同時代の人間の評価もすべて芸術というこの死体を彩る花に過ぎない。我々の大半は無責任に芸術を享受し、芸術に対する知識を披瀝するがそれは死体を嬉々として解剖する行為であり、それは後世に生きる我々の特権なのである。



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