「おそろい」の気持ち悪さ
「おそろい」ってなんか気持ち悪い。
おそろいって、かわいらしい言葉。「姉妹そろいの着物、すてきですね」とか「これ、○○ちゃんとおそろいなの」とか「彼とおそろいのネックレス」とか。そこには親密や、結束のニュアンスがある。
昨年、旅行に行ったとき、空港で同じ部活動チームと思われる男女が、手作りでおそろいの名札をリュックサックにつけていた。フェルトでできたディズニーのかわいらしいキャラクターの顔がついていた。
前途したように、「おそろい」いは親密さや仲間意識、結束、団結などの意図が込められているように思う。
わたしも幼いころは、友人とおそろいの何かを身に着けたり、購入したこともあったかもしれない。今すぐにパッとは思い出せないのだが、一切ないとは断言できない気がする。
兄弟おそろい
おそろいと聞いて、思い出すのはやはり自分の子どもたちである。わたしには14歳と9歳の息子がいる。彼らがまだ小さかった頃、わたしはおそろいの服を着せていたことがあったなぁと思いだした。
上下まったく同じものを着せていたこともあれば、それぞれの洋服は違うメーカーやデザインの物だったとしても、上下の色合いを揃えて着せたりしていたことがあった。当時、子どもたちもそれをとくに気にしている様子もなかった。
でも、長男が小学校2~3年生になったころだろうか。急にわたしは、兄弟のおそろいファッションに気持ち悪さを感じるようになった。長男が、ほとんど赤ん坊のような弟と全く同じ服装を「させられている」ように感じ始めたのだ。
今まで、何の疑いも持たず「かわいい」「仲良し」などのイメージを当てはめ、勝手に同じ服を着せていたことにハッと気づいてしまった感じがした。
ペアルック・リンクコーデ
今ではもう、上の子は中学生になり、下の子は小学3年生になった。洋服をわたしが用意することなどないので「おそろい」なんて言葉をすっかり忘れて過ごしている。
では、大人の場合はどうだろうか。
わたしたち家族は、わりと白・黒・カーキ・茶・グレーなどの比較的地味で合わせやすい、無難な色の服を好む傾向にある。たぶん、合わせやすい・着まわしやすいという単純な理由だと思う。(わたしは結構赤とか、水色とかも好きなんだけれど)
でも、ときたま、偶然に色味が被ってペアルックみたいになってしまうことがよくあるのだ。最近の言葉で言えば、リンクコーデという感じか。
上がグレーで下がジーンズ、なんて誰でも着る組み合わせだと思うんだけど、けっこうな確率で偶然一緒になってしまう。
そうなったときは「先に着替えた人(身支度を始めた人)を優先して、後から着替えた人がやり直し」という漠然としたルールのようなものができている。
今のわたしたちのなかでは「おそろいって気持ち悪い」という感覚なんだよね。そこにある心理としては「仲良しだとアピールしたくない」とか「示し合わせたと思われたくない」がある。
「おそろいを意図している」と思われたくない、が強いんだと思う。
物でそろえるのは「絆」を意図的に強化するため
ここまで考えて思ったのは、何かしらの物や洋服といった物質的なものをあえて「そろえる」という行為には、意図的に絆とか結束を強化したいという心があるからではないかと思う。
子どもの頃、女の子は友達とおそろいの物を持ったり身に着けたりして「わたしたちは友達だよね」と確認し合ったりしただろう。
現代でもよく見る「リンクコーデ」も、なんだか同じにおいがする。仲良しだよねと確認し合う感じ、仲良しですよとアピールする感じ。そんなにおいがする。それをイベント的に楽しめる「余裕」があるのかもしれないし。
「似ている」とか「同じ」という感覚は、やっぱり人と人を強く結びつけるんだろうなと思った。
「似ている」「同じである」ことの仲間意識
そんなことを考えていると、別に物や洋服のおそろいだけではなく「性格」や「感覚」の類似傾向も、仲間意識に大きく関係していると思った。
「あるあるネタ」を披露する芸人は、みんなの「わかる」をつかむことで仲間として認識される。オシャレなママはオシャレなママと付き合う。酒を飲む人は酒を飲む人と絡む。特定の事柄についての愛好会や研究会がある。それらすべては似ている・同じであるという「おそろい」の感覚と同じなのではないかと思う。
わたしだって「この人はわたしによく似ている」と感じて、密かに何者かのファンになったりする。
でも、果たしてその人と自分は似ているのだろうか。同じなのだろうか。
おそろいでウキウキする女の子同士も、いずれ「真似した・された」などと揉めることがあるだろう。共通の分野に興味がある人同士でも、その研究の中で意見は分断する。オシャレなママ同士という共通点はあっても、腹の中で何を思っているかなんて知れたものではない。あるあるネタで一躍ブームとなった芸人も、スキャンダルを報じられれば人気が消えることもおおいにある。
だから「似ている」とか「同じ」なんてないんだなぁと思う。似ていると思いたいし、同じだと思いたい。親密になればなるほど、そうなんだと思う。
ふたつのものは全然違うものなのに、一部分だけが似ている。言い方を変えれば、確かに一部分に共通点はある、ということに過ぎない。ただそれだけ。
でもときどき、一部分だけが同じだと「全部同じ!」「こんなに自分に似ている人は他にいない!」「こんなに分かり合えるなんて嬉しい!」と舞い上がってしまうところがある。
よく考えたら、一部分しか似ていないし、ちょっとしか同じじゃないんだよね。それが、他者と自分は違うということなんだなぁと思った。
人はみな孤独だという言葉があるけれど、それは決して「孤独だからさみしい」「誰とも分かり合えないからつらい」という意味ではなくてさ。
みんな「個」なんだということ。独立していて、いろんな形をしているってことだと思う。だから「わかりあう」ことはないのだ。わかりあわなくていいのだ。
一部分だけがちょっと被っているんだよ。でも全体はぜーんぜん違う形状であり、性質であり、生活、環境を生きている。
しかもさあ、人は日々変化していたりもするわけだから、この上記図形は各々が常に回転しているようなものだと思う。人間に置き換えて想像してみて?笑えるから。
だから、似ていると思うのも、わかるのも、ほんの一部分なんだね。
「仲良しだよね?」とか「わたしらは一緒だよね?」と確認し合うようなこと、もしくは「似ていていてほしい」「同じであってほしい」という願望って、ストレートに表現されず別の形で表現されることもあるなぁって思う。
それが「自分自身」を苦しめる。それはこの世に存在しないものだからだ。
子どもにおそろいの服を着せていたころ、わたしは本当に生きてて楽しかったのかな、子育ても、毎日の生活も、楽しめてたのかなと思うと、なんだか疑問と空白しか残らないのだ。
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