あいつはマジで×××
「おれだって、ムカつくことがあったら、その気持ちが言葉に漏れちゃうことあるんだよ」
小学校4年生になる次男と、学校のことをときどきしゃべる。いいニュースを聞かせてくれることもあるが、やはり多くは「理不尽だ!」「
ムカつくぜ」「理解できない」という憤りの話になる。
次男は、めったに泣かない。痛くても、悲しくても、怒りを覚えても、それをわかりやすく表現することの少ないタイプだ。
今のところ抑圧しすぎて心身の調子を崩すようなこともないのだけど、やはり毎日たくさんの人と接する苦労は、たった9歳でも立派なものだ。
「おれは友達に言い返したりしない。自分が悪くないことで先生に怒られても、言い訳しない。そうすると余計にめんどくさいことになるってわかってるから」
などと、大人びたことを言う。
しかし
「悲しかったりムカついたりすることがあっても、泣けないんだよ」と言う。
「みんなすぐに、相手にバカとか死ねとか言うんだよ。それか先生とか他の子に言いつける。そんなことしたら大ごとになって、余計にめんどくさいことになるじゃん。だからおれはこらえるんだよ」
次男は、普段、のんびりひょうひょうとしていて、すごくメンタルの安定しているタイプに見える。
どちらかといえば器用で、考え方にも柔軟性がある。だから、あまり心配になるようなことも、トラブルを起こすこともない。
でもそれは、平気なのではなくて、次男がそうやって努力していることの結果なのかもしれないなと、よく思う。
「でもそうやってこらえてばかりいて、つらくならないのか」
わたしはちょっと聞いてみた。
たぶんそうとうこらえているんだろうなと、ときどき思う。
めんどくさくならないように、事を大きくしないように、自分で争いを止めようとするから、彼の周囲は平和なように見えているだけなのかもしれないなと思う。
そうしたら、次男はこう言った。
「うん、だから漏れちゃうことはある。バカとか死ねとかって、小さく言ってしまうことがある」
聞こえるか聞こえないかくらいの感じで、言ってしまうんだと。
まぁ、そんなこともあるよなと思う。たとえその言葉が、どんなに悪い言葉であっても、仕方ないと思った。
「漏れてしまう」と言った、その表現にすべてが詰まっている。
強い言葉をぶつけるのと、漏れてしまうのは違うだろう。
ただ、わたしがそこで思うのは、ぶつけることも、漏れることも、他人からすると「発した」ことに変わりはないということだ。
いつも我慢していて、何度もぶつけそうになった言葉が、つもりつもって漏れ出てしまったとしても、その「死ね」という言葉を発してしまった事実に変わりはない。
わたしの感覚ではあるが、このくらいの前思春期の子たちが使う「死ね」というのは、本当に死んでほしいわけではないし、相手を傷つけてやりたいという悪意の言葉とは言い切れない。
「今関わりたくない」「目の前からいなくなってほしい」など、距離を取りたいというニュアンスを含むこともあると感じる。
一次的に離れたいときに、強く突き放すための言葉として使われることもあると思っている。
漏れ出てしまう、攻撃性のある言葉。
言葉は、発してしまった時点で相手のものになる。本人に「そんなつもり」はなくても、結果として攻撃になり、人を傷つけるものなんだよなぁと思った。
たとえ、10回攻撃されて、10回耐えて、11回目に漏れ出てしまった「死ね」だったとしても、それを周囲は考慮などしない。
「死ね」と言ったことが切り取られて、「あなたが悪い」というジャッジになることってあるよね。そんな話になった。
「じゃあさ、死ねとかバカとか、相手を攻撃する言葉を何か別の言葉にしたらどうよ?」
わたしは気づくと、この提案をしていた。
以前、エイブラハム・ヒックスの教えを伝承する人が「嫌なことがあったら、全く関係ない言葉をつぶやくようにする」というテクニックを説いていたことがあった。
人は嫌なことがあると、そのことに意識を集中させてしまう。だからこそ、死ね・ムカつく・バカ・なんで自分が・お前なんか…!! などと、相手を攻撃したり反撃したりする思考や言葉が、無数に浮かんでしまうものである。
「嫌なことがあったり、ムカつくことがあったときに、一旦そこから意識を外すために、全然関係ないどうでもいい言葉をつぶやくようにするといいって聞いたことがあるんだよね。
でも、自分のなかではそれは、“死ね”とか“バカ”みたいな、反撃の言葉なんだよ。誰にもわからないように、自分の気持ちを処理できる言葉を用意しておくといいらしい」
わたしはそんなようなことを言った。
「たとえばどんな言葉?」
「うどん、とかさ」
「うどん!!!(笑)」
そこで息子は笑った。
「食べ物の名前がいいよねやっぱり。なんか、バカみたいじゃん」
「え~そっか~、何がいいかな」
そこから、自分の気持ちを静めるための言葉として、どれが一番しっくりくるかを探すタイムが始まった。
「ラーメンとか?」
「う~ん、ラーメンだと響きがぬるくないか?」
「じゃあ、そうめん?笑」
「そうめんは、なんか弱そう」
「確かに…!細いし」
すると息子が突如
「ペペロンチーノ!」
と言い放った。
「お前なんかペペロンチーノだ」
「あいつマジでペペロンチーノ」
「ペペロンチーノだからしょうがない」
そこからは、攻撃的な言葉にすべてペペロンチーノを当てはめるシュミレーション合戦になった。文字では伝わりにくくて申し訳ないが、とにかく何に当てはめてもペペロンチーノにすると笑える。
しかも不思議なことに、ある程度のスッキリ感も得られる『尖った響き』がある。
うどんやラーメン、そうめんじゃ弱いし、パスタじゃなんか意図がブレる。
しかし、『ペペロンチーノ』は、相手をバサッと斬れるような感覚があったのだ。あくまでもこのときのふたりのフィーリングのなかでの話だけど。
満場一致で、ペペロンチーノの語呂が最適だという話で、お腹が痛くなるまで笑い、この話を閉じることができた。
人を悪く言ってはいけないよ。
そう教えるべきだと、わたしは思わない。ムカつくヤツはムカつくし、ときには攻撃したいことだってある。それが人間だろう。
でもそれを、相手に、周囲に、わかるように言ってしまったら不利になるんだ。どんな理由があろうと、人を傷つける可能性のある言葉を放ってしまった時点で、加害者にもなるし、自分が望まない結果になる。きっとそのとき、自分を責めてしまうかもしれないし。
一度放ってしまった言葉は、取り消すことができない。それはわたしが普段から強く思っていることもである。
しかし、その一方で自分の気持ちも大事にしたい。
いや、自分の気持ちこそ一番大事にしなきゃならない。
だから、あいつはペペロンチーノなんだよ。