寛容でなくてはならない!という不寛容さ
多様性に対する寛容さ
昨今よく耳にするようになった、多様性。
多くの場面で語られているように、多様性に対する寛容さはとても大事ですよね。
ただ、例えば「多様性に寛容でなくてはならない!」になると、それって寛容でない人に寛容さを強要する行為になって、それってつまり不寛容じゃない?という場面も見かけたりします。
寛容でなくてはならないという不寛容さ。
これって結構よくみる構図だよなと思ったりもします。
例えば、何某かの権利を守る会とか、何某かの専門組織とか団体とか、「◯◯の権利を守るには、こういう場面ではその都度きちんと声を上げなければならない!」といった活動をする方々がいた時に、声をあげられない弱者を叱咤激励するようなシーン。
主張の目的は権利や弱者の保護だったりするのに、ディスカッションやその他の場面で、権利を侵されているのに声をあげない人に対して、それじゃダメだよと訴えるシーン。
主張する方々と同じような声をあげられない人の中には、同じような気持ちはあるけど勇気が無かったり、言葉にするまでの呼吸やタイミングが違うだけだったり、瞬間的に言葉にするのが不得意な人だったり、大きな声で言われると怖くて硬直してしまう人だったり、色んなタイプの人がいると思うのだけど、決して考えてないとか理解してない訳ではない人も含まれると思うのだけど、同じような声のあげ方が出来ない人に対して、それじゃダメだよと詰めるような言い方をするシーンて意外と多く見かけるんですよね。
本当は仲間だったり同士になる筈なのに、敵に回すまでは言わないけど、萎縮させて距離を置かせてしまう。
そういうシーンを見ると、活動の主旨は素晴らしいのに、個人の活動の仕方が勿体ないなぁ〜と思ったりします。
寛容であることは受けとめること
多様性に寛容であることは、異なる価値観や考えに同意や共感するかどうかはさておき、異なる価値観や考えを受け止めること、そして違いがあることを受け入れることだと思います。
そのうえで共生する為の話は次のステージ。
だから、場合によっては課題解決のために説得することが大事だったり必要な事もあるだろうけれど、初めから結論ありきで説得する為の議論をするのではなく、まずは対話すること。
料理を決めつけて必要な食材はこれだと主張するのではなくて、互いが持つ異なる食材は全てテーブルに並べて、互いにどんな食材があるのか、多様な食材を見せて、理解して、それから料理や超方法を選ぶようにしたいよね、と思います。
合意と同一化を目指す為の議論ではなく、
皆がいかに違っているのかを理解し受け容れる為の対話。
自戒を込めて。