2020年のコロナ禍直前のHYPE、2022年の秋に参戦した変身、2023年の汗ばむ春に岡惚れだった子と行った空想。わたしが米津玄師という沼に嵌ってから、これまで全てのライブを一次で勝ち取ってきた。 そして今年、わたしにとって4回目のライブ、JUNKで初めて一次先行で落選した。今年は厄年かなと思った。友達と行く約束をしていたから、もう一回リベンジしてみよう。二次はもっと狭い道だろうけど。そう決めて、当落の日まで必死にわたし自身のことを、いつもの日常を淡々と、必死にこなし
コロナが治ってきて、体調が復活してきたと同時にこの夏にやる予定が全てなくなってしまったことに気づいた。空っぽ。虚無。何にもできてない。また周りに置いて行かれてしまった。 思い返せば今までずっとそうだったのかもしれない。誰かが頑張っているのを見て、「ああ、いいな」と羨ましがるばっかりの人生。そんなんばっかり、中途半端。 私には全てが足りない。始める勇気、続ける熱意、決める覚悟。人間として評価されるべき要素が、全て抜け落ちてしまった。なんでこうなってしまったんだろう?全部が
お盆休み、実家に帰ってきて3日目、コロナで寝込んでしまった。コロナの潜伏期間は2日から3日程度と言われているから、帰省する時に感染したといって間違いないと思う。地元での予定が全て泡沫に帰した。 実は今まで感染したことがなかったので、初めてのコロナだった。何も喜ばしくはないし、むしろ死ぬほど苦しかった。発症から3日目の今もまだしんどいが、初日ほど熱は上がっていないので、自分で少しの距離なら歩ける程度にはなっている。 実家へ帰る途中で、寄り道をして展示の見学や買い物をした。
2022年にMrs.GREEN APPLEがフェーズ2を始動させ、既に2年以上が経つ。フェーズ1としてのMrs.GREEN APPLEには終止符が打たれ、それまでとはまったく新しい切り口で、音楽を届けてくれている。…が故に、当初から彼らのパフォーマンスの違いに対して否定的な意見が散見した。そして先日、大森元貴さんのインスタライブで、ファン(Jam's)へお気持ち表明があった。 衣装や曲だけが好きとかでもいい。ノリとかわかってなくてもいい。Mrs.GREEN APPLEの全て
コロンブスのMVが出た翌日、多数の視聴者や音楽関係者などがその演出について批判の意見を寄せ、現在Mrs.GREEN APPLEは公開を停止している。トレンドにはミセス炎上というワードが入り、鎮火するにはもう少し時間がかかりそうだ。またコロンブスはMagicに続き、コカ・コーラとのコラボソングとして作られた曲だが、コカ・コーラ社は現在コロンブスを使ったCMの配信を停止しており、その声明文に困惑と失望の声が多く見られている。私はMrs.GREEN APPLEが大好きで、冗談抜き
注意書き コスト削減につき敬称略しています。予めご了承下さい。また、個人的な感想や意見を含みますので、あくまでも考察の一つとしてお読みください。 米津玄師のリリースした5thアルバムには「ひまわり」という曲が入っている。意外にもあまり知られていない曲だけど、ツアー変身で「今は亡き親友のために歌っていいですか」と前置きを据えて力強く歌っていたのを、わたしはいまだに鮮明に憶えている。先日、ヒトリエのボーカルであったwowakaの歌詞集が発売され、その帯の寄稿文を米津玄師が飾っ
夜には特別な感情がある。 わたしの生活軸において、ゆとりを許されている唯一の時間。何をしてもいいし、何もしなくていい。「使命感」という名の束縛に絆されない、空白の時間。 あるいは、虚無の時間。何を言っても届かなくて、ひとりの時間。真っ暗な、行先の見えない間隙。 そんな夜は、誰にも邪魔されたくないし、誰のことも邪魔したくない。思いのままに、部屋の中でしたいようにする。他人の干渉なんて野暮そのものだ。 布団の中で目を閉じる。せめて夢の中では、辛いことなんて全て忘れて
これから待ち受ける色んなプレッシャーに怯えながら、わたしは今日もこの曲を聴く。 辛いことだって山ほどあるよね。誰かに言えないことの方が多い。ゆうべ、明日やろうと決めたことを、やっぱりやめようかな、なんて日常茶飯事だし。 出来損ないなのは分かってる。逃げたい。でもそんな弱い自分を、わたしは何よりも嫌いだ。 将来のことが、心配になる。今を生きるのに精一杯で、これからに向けての準備なんてできる余裕がない。やらなきゃいけないことはわかっている。頭ではわかっているのに、体が動か
実家で暮らしていた小学校の頃、近くに遊ぶ場所もなく友達も少なかった私はカメラに虜になった。私の実家には大きな庭があって、そこには色々な種類の野鳥が訪れる。野鳥は私にとってアイデンティティそのものだった。庭にやってくる鳥を見つけては、大きな鳥の図鑑で名前を調べた。 ある日、祖母がオリンパスのカメラを買った。庭に咲いた花を撮るためのものだったらしいが、すぐに私のものになった。(私のものと言うのはあくまでも比喩であって、私が勝手に私物化したというほうが正しい)そのカメラのフォル
春の匂い 新しい時間に 新しい環境に 新しい出会いに 不安8割と わくわくを一握り 見慣れたはずの景色がまるで嘘の様な 心は追いつけていますか? 呼吸はちゃんとできていますか? 不確かな未来に振り回されながら 今日も大きく息を吸う
よく分からない心の靄がずっと溜まっていて、それをなんとか言語化しようとしたら辛いことがいっぱい出てきた。どうしたら報われるんだろう? 人との関わりが希薄。私は誰かにとって特別な存在でいたいのに、私自身が動けない。 分かっているのに、気をつけないといけないのに、頭では思っているのに。体が追いつかない。指摘されるとどうしようもなくイライラする。 頭の中がぼーっとして、感情を整理できない。 タイムラインにADHDの投稿が流れるたび、私に特徴が重なってつらい。 私は誰かを必要としてい
普段は滅多に起きないことだが、急に猛烈に寂しくなった。前にも書いたように思うが「そういう日」とかではない。何かよくわからない感情、強いて言葉を選ぶなら寂しいが一番近いと思った。誰かに構って欲しい。できれば貴方に。 人間関係はなるべくフラットでいたい。人と関わりを深めるのは気が滅入るし、素の自分が出せない。「素って何」と自分でも思うが、少なくとも他人とやりとりする時のわたしは偽りの蓑に身を任せているという自覚がある。連絡は必要不可欠な時だけ、発信は一方的。だいたいそんな感じ
課題を大量に残して、実家に帰ってきた。実家は時の流れがゆっくりしている。忙しない日常からちょっと脱線して、年末年始を過ごす。そのはずだったんだけど、帰省する前に思ったより課題が進まず、課題も一緒に地元へ連れてくることになった。課題と実家は昔から相性が悪い。モチベーションの悪さと甘えが大戦犯となっている。とはいえ何もしないことには始まらない、いや終わらないので、パソコンの画面と睨めっこをしていた。慣れない作業は本当に嫌気がさしてくる。慣れないのに、締め切りというプレッシャーが
ついこの間年が明けた、とノートに書いたと思えば、もうその年が終わりを見せ始めている。…と綴りながら、なんか年寄りみてえだなと思う。2023年もなんとか、大事なく過ごしきれそうかな。来年はどんな年になるんだろうね。 年末になると、テレビ各局が忙しない。音楽番組だったり、いつもはやらないドッキリ番組だったり、いつも一時間のバラエティがやけに長かったり。長いバラエティはあんまり好きじゃない。もともと好きでも飽きてしまうからだ。あとは、年末は今年あった出来事を振り返ろうみたいな、
鼻が詰まると気付いた、呼吸をしていたこと 手を当てて気づいた、鼓動の音がすごく小さいこと 言葉に出してわかった、思い遣りに傷つけていること それと同時に思った、その言葉が本当は出鱈目だったってこと あなたが途絶えて気づいた、大好きだったと伝えようがないこと 過ぎ去って気づいた、なんでもない瞬間がすごく愛おしかったこと あなたはもう戻らない 私は思い出とともに蔑ろにしてしまった どうか届いて欲しい でも、嫌だ、なんで、 こんな、 弱い自分が醜くて 今日を生きるのが精一杯だった
僕には不定期に、理由もなく泣きたい日がある。特に辛いことがあったわけでもなければ、緊張することもないのだけれど。とにかく、無性に胸が苦しくなるのだ。そういう日は立つことさえしんどい。蹲っていたい。布団の中に入っていたい。自分でもその正体が何なのかわからないまま、メランコリーな感情に襲われる。 ある日の朝、何の気無しにYouTubeを開いていると、Adoがマツコと対談している動画が出て来た。おそらく切り抜きの転載だったと思う。動画の中で、Adoが自愛について相談していて、自分の