「僕が思考をしたことなんてあっただろうか?」【哲学】

*題を変えました(6/18, 0:30, 他)

(題は適当です。特に深い意味はありません。本文と多少の関係はあります。)


思ったことをそのまま言うのはダメなんだと思う。

(あけすけに言うのが配慮に欠けるとか、オブラートに包むべきだというのとは、今回はまた違った話です。)

思ったこと、つまり自分の思考という、きっと極めて個人的で私的な内的体験をそのままの形で言う(書く)ーー別な言い方をすれば「生(なま)の思考のまま言う(書く)」といった感じだろうかーーと、恐らく人に伝わらないのではないか。

俺がnoteで文章を書き始めて以来感じていた、ある種の手応えのなさーーもともと想定していた、文芸批評や哲学方面にまつわるリアクションの乏しさーーに対する自分なりの考察として、また、その疑問への自分による解答のつもりで本稿を書いてみる。

思ったことをそのまま言ったら伝わらないのではないか。これが本稿のテーマだ。

***

思考とはなにか? 本稿はそんな問いを根底に前提としてはらみつつも、そんな問いに正面から答えようとするなどという、......などという、なんだろう? などという......「センスのないこと」をしたくない。

......。うーん、なんかダメな書き方な気がする。文章を書くのが思いのほか難しい。

俺がそれをセンスのないことだと思っているということ自体は伝わりはするだろうが、「なぜセンスがないと思うのだろう?」とか「別にセンスなくはなくない? 共感(ないしは理解)できないなあ」とか思われる気がする。まともに文章を書きたいのであれば、きっとそういう点に配慮して、それがセンスのないことだと思わない人に対して、なぜそれがセンスがないと言えるのかを、ある程度説明していかなければいけない気がする。でないと客観的にとても読めたものにはならなそうである。ああ〜、めんどくさいね〜。

「◯◯とは何か?」というこの最も根源的な一つの問いが、馬鹿の一つ覚えみたいに多用され、抽象的すぎるなどのせいであまり効果的でなく意義の薄いような場面でさえ持ち出されて、それをしている本人はなにかを思考した(言った)気になっているという現象が俺は嫌いなんだ。ざっくり言うと、そういうことだ。そういう理由で「センスがない」と俺は言った。

(しかし、本稿は、その点に関して自分で反論することになるかもしれない。)

とにかく、「思考とはなにか」という問いは、本稿において潜在的な着目点ではあるのだろうが、俺自身の好みから、とりあえず脇へ置いておく。

***

思考は言葉でできている側面がある。あるどころか、それは大きい(強いって言うのかな?)かもしれない。むしろ逆に「言葉で思考しない」ことの方が、なんだか感覚的で才能のある人の行いのような気もするということもあるかもしれない。

思考は言葉に拠って、言葉の上で成り立っていて、言語をそもそも持たなければし得なかったような思考さえ存在するかもしれない。そんな側面がある気がする。が、実は別にそんなこともないのかもしれない。わからない。あくまでも推測である。雰囲気や感覚から、なんとなくのことを言っている。

(若干繰り返しにもなるが、「思考とは何か?」という観点から、常識的な次元や日常会話のレベルで無理なく自然に「思考」と呼べるものを「そんな誰にでもできそうな次元の低い認識を思考とは呼ばない」と、気取ってひねくれたことを俺は言おうとしている。いる。このことはあらかじめ白状しておきたい。俺なんかそんな奴だ。)

少なくとも文章に表すとき、思考は言葉の形を取って現れる。当たり前の話だな。

哲学にかぶれたせいで、こんな当たり前のことしか堂々と断言出来なくなった自分が情けないというか、おかしいというか、なんだか馬鹿馬鹿しいような。

この「言葉として現れた思考」が、今回の話の中心点だ。「言葉として現れた思考」のマズイ在り方の説明と、ひいては「思考とは何か?」という問いに(上記の自分の好みに反して)答える形にもなっていきそうな予感がする。

***

言葉の使い方は人によって微妙に違う。同じ言葉でも、(ちょっと表面的な言い方になってしまうが)どんな言葉と組み合わせて使うか、その私的習慣は、人によって多かれ少なかれ違うはずだ。

ひとりの個人の中で言語がどのように成り立っているか、脳内で云々だなどと科学的な見地からでなくとも、もっと卑近にイメージだけでもいろいろ面白いことが語れそうな気がする。言語はそれぞれの個人の中で結構大きく違った癖に基づき、全く違った地図が描かれているような気がする。

同じ言葉の使われ方が人によって微妙に違う事例として、「世界観」という言葉を挙げてみる。「世界観」という言葉でパッと思い浮かぶのは、映画などの作品における、現実とは違うそのファンタジー的な世界の設定という意味で、「『風の谷のナウシカ』の世界観は今見ても古びていない」とか、そんな風に使われるのが「メジャーな」ように思う。この「世界観」という言葉を「山田くんの世界観は興味深い。外資系の証券会社やコンサルティング・ファームに就職する以外の道を退屈なものと考えているとはね。」とかいう風に使うこともあるかもしれない。世界をどう見て(観て)いるかという意味で使っているものと思われる。このような意味で、このような仕方で「世界観」という言葉を使っても、別に間違ってなさそうである。そもそも、こっちの方が本来の使い方な気もする。

それに、同じ言葉を違った仕方で使うということだが、「夜から逃げていた」だとか「僕はいつも未来を探してた」とか、詩的表現と言われる(見なされる)類の表現・手法もあるわけだ。言葉を従来とは違った使い方をした、言葉の上でしか存在し得ないような、一種の非合理的(非論理的?)な言語表現である。ある意味で、言葉をわざと間違った使い方をして、面白味を出そうというわけだ。「僕はいつも、自分とは別のところに未来を探していた」なんだか一般にウケそうな言い回しではないか。そんなことない?

この「同じ言葉の使い方が人によって微妙に違う」ことが、本稿の主題「思ったことをそのまま言っても伝わらない(のではないか)」に関係している。関係しているというか、それがたぶん主題の正体である。人それぞれ言葉の使い方が微妙に違うから、「“なんか”伝わらない」という事態が起きる。のではないか。

思考が言葉でできているかどうかは結局断言を避けたが、少なくともそういう側面があるのはそれなりに確かそうである(それでも「それなりに確かそう」としか言わないのがウケる。どんだけ慎重なんだ)。人が言葉を使って思考したとき、ないしは思考を言葉に当てはめたときの、それらのどっちの場合も、自然な仕方で言うときの「思考をしている」状態というものは、一般的な意味では、日常によくあることだろう。当たり前だ。無意味なことを言ったかもしれない(白い雪は白い、みたいな......)。ところでこの、なにをしたら思考したと思う(みなす)かというのもまた、個人によって微妙に差異があると思う。

その差異に関して、本稿のタイトルのような「その程度では思考と言わない」などという、言う言わないの問題としてではなく、どんなものを思考とみなしているか人によって「違う」というそのことを、いま考えてみたい。言葉が少し違った仕方で使われるのと同じような、というか。

面倒だから単刀直入に言うと、個人が思考とみなしているものが、言葉という在り方を借りたとき、他人がそのような言葉の連なりや意味の持たせ方をしないような仕方でその人は言葉を使い、それを思考と、その人が勝手に思っている可能性がある。可能性があるというか、思考なんてそんなものなんだろうと俺は言いたいのだ。

表面的に言葉が違った連なり方をしているだけでなく、その言葉のひとつひとつに込められる意味が微妙に違うのであるーーその意味はもはや用法からしか判別・理解できない。それも、できるだけ沢山の事例からーー。この二重の溝が、言葉を他人に伝わらなくすると俺は思う。言葉や文章を、ともすれば(見る人によってはという程度だが)ナンセンスなものにしてしまう。

他人の文章を読んだときにいまいちピンとこないのは、その書き手が独自な(独特な)思考をしている、ないしは独自な(独特な)言葉の使い方をしてい(言葉に独自な意味を持たせている)ながら、そのことに解説を添えないからである。

そんな気がした。

そして、そういうものは、そもそも初めから、独自すぎるものの言い方がされている、それこそ意味不明でさえある著名な哲学書などの「俺について来い。君に読解できるか?」という、子供しか食いつかないような、視野が狭くローカルで自己陶酔的かつ上から目線の態度の物言い(の文章)に、そいつ自身が食いついてしまったために、マルチ商法が展開するかのごとく、そいつ自身も同じような態度(=独りよがりで勝手な論理展開の文章)でものを語り始める羽目になったという代物なのだ。自分自身がそれに食いついたものだから、他人がそれに食いつくことを疑わない。というより、もはやただ無邪気に倣っているだけと言えるのかもしれない。

noteで見かける文章の多くが、独自だが客観性に欠けるか、客観性は強めだが内容が陳腐かのどちらかに思う。俺自身が当てはまらないとは言わない。俺は客観性が弱い系の文章ばかり書いているはずだ。

言葉が、思ったままのことをそのまま言うだけでは伝わりにくいのは、人の思考はかなり曖昧なものでできており、他人と互換性がないというか、言葉にするときに少しくどいくらいに客観性を意識しないとたちまち、他人から見て無理のあるつながりになってしまうからではないだろうか。

他人は、飛躍の大きい論理展開(の文章)を「面白い」とは思わない。経験則だ。他人の文章を見てそう思ったし、自分の文章もそう思われてきたような手応えが、なんとなくある。

人は、自身の内の、なんてことのない言葉の連なりを思考であるだなどとタカをくくっており、それをそのままの形で文章として表現してしまうから、「勝手な文章」というものが誕生する。

「勝手でなければつまらない」などという安易な逆説に飛びつく輩もいるだろうが、それこそ独自の言葉の繋がりであり、その人がどういう意味をその言葉に込めたのか、もっと多くの言葉を費やして説明されなければ、他人には全然伝わらない。逆張りの、奇をてらっただけの見掛け倒しの表現ではないとどうして言える? 人と違うことを言うことができたというその一面だけに満足し、たったそればかりの言い回しで自分の表現が完了していると(それも実のある形でと)闇雲に思っているのではないのか? 他人が納得しないで良いのであれば、そりゃどんな言葉(言い回し)だって言い放題だろう。どこかの作家の言葉の受け売りなのか、逆説をそれだけでポンと文章に投入し、それに対する自身の十分な敷衍なく文章表現を済ませてしまっているのが、下手な書き手の典型的な失敗の一つだろう。(受け売りだとして)受け売り元という後ろ盾があるためか、本人はいい気になって語っているのだが、その独善性と拙さをまるでわかっていない。それだけのもの、つまり客観的に見て説明の不十分な表現であるのに、読者に伝わらないでいるところを見て「あいつは話がわからない」とか「この言葉(言い回し)の意味(や価値)、伝わらないんですか? センスがないですね」とかいった具合に読者のせいにしているのであれば、または自分の文章が読まれないことを不思議がっているのであれば、それこそ、それを独りよがりというのだ。

一般読者は君のローカル合言葉(ないしは暗号)に付き合ってられないんだ。他人を納得させる表現に落とし込むことができなければ、ただの荒唐無稽な子供騙しの表現だ。揶揄を込めると明確に断った上でそれを「詩的表現」と言ってやる。

思考とかいうものに対する過信が、文章を「詩的表現」ないしは「ローカル独自個人言語」で埋め尽くし、目も当てられない一人踊りに文章が成り下がってしまうのである。独自な言い方をすれば......「他人の言葉で思考(を表現)すること」、それが(マトモな)文章表現である。でなきゃ、全て独り言だ。

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ま、わかる人にしかわからないのだろうが、本稿のタイトルのような暴言は、もともと自分自身に向けられたものであった。(これは独り言)


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