カフェの社会学 最近の若者は本当に最近の若者なのか
社会学という学問はアホらしいなとよく思う。研究分野が自らのルーツに親和性がある場合は良いのだが、ある分野に関して当事者でない研究者が当事者づらして分かった気になっているのが、見ていて痛々しい。特に若者文化を研究対象としている中年研究者はその最たるものである。若者のことなぞ分かる訳ないのに、やれ「最近の若者は2時間の映画が見れない」だとか「最近の若者はSNSで常に繋がっていないと不安」だとか「最近の若者は恋愛に興味がない」だとか。いい加減にしろよと思う時がある。
中年研究者たちは大学の授業で接する学生を主なサンプルとして、学生のことを理解し研究しようとしているのではないだろうか。そうでなかったら、さっき挙げたような「最近の若者像」は出てこないだろう。
中年研究者たちが「最近の若者」と思っているのは、同じ偏差値の同じ大学の同じ学部の同じ授業を履修しているような、作為的に抽出された学生なのだから、多様性の欠片もない。大方の若者は「最近の若者像」に当てはまってしまう部分もあるだろうから、全否定はできないのだが、私からすると「最近の若者」も余裕で2時間の映画を見るし、SNSを活発にやっていない人もいるし、結構みんな恋愛している。特に恋愛に関しては、当事者である私も驚くほど若者は恋愛をしている。
ドトールやルノアールで若い女の子の話をよく聞いてしまう。いわゆる盗み聞きというやつだ。カフェで話される会話は大変生き生きしていて、無防備にもほどがある。大抵、女の子は「大学やバイト先の愚痴(就職していたら就職先)」か、「恋愛事情」とか、「推し」のことを赤裸々に話す。びっくりするほど一様で多様性も何もない。彼女たちはいつもおんなじ話をしている。授業は楽単寸前でバイト先のクソ客と馬の合わない社員に振り回され、引くほど束縛する彼氏の痛々しいエピソードトークで共感してお互いの推してるアイドルやらキャラクターを褒め合う。こんな会話ばかりしている。
私は聞いててとても恥ずかしくなってくる。あまりにおんなじような話しかできない女という生物に対して。怖さすら感じる。しかし、彼女たちの会話(大抵二人一組である、きっと三人以上いると赤裸々に話せないことがあるのだろう)は、とても生きた会話なのだ。社会学者の文章に出てくるような、最近の若者にはない「従来的な若者らしさ」をカフェで好き勝手話す若者からひしひしと感じる。なので、社会学者は大学で出会う真面目な学生や、Z世代とかインフルエンサーみたいな極端な若者像しか目に入らないようなフィールドワークではなく、ドトールやルノアールに行って会話を盗み聞きしてみた方が生きた「最近の若者像」の実像を掴めるのではなかろうか。
ちなみに補足すると、ドトールやルノアールで会話する女の子は二十代前半のうちは上に挙げたような会話をしているが、二十代半ばになってもあまり変わらない。しかし一点だけ劇的に変わる部分があって、それは恋愛事情に関するものだ。二十代前半の頃、束縛する彼氏に悩まされたり、理想を追い求める恋愛をしていた彼女らは、二十代半ばになると突然現実路線への転換を図る。周りの友達が次々と結婚したり、継続的な特定の相手を見つけたりすることで、恋愛に振り回されていてばかりだった彼女らの気持ちに焦りが生じるのだろう。「わたしもいつか結婚するのだろう」、「長期的なスパンでお付き合いできる男に出会う時が来るのだろう」という思いを胸に秘めて妥協案の模索に勤しみだす。
それでいうと、結局、女性は恋愛やら結婚に囚われていて多様性とか結婚だけがゴールじゃないみたいな話が挙がると、日本ではない別の国のとんだ机上の空論だなと思えてしまう。現実味が無さすぎる。
もしかしたら、多様性やら結婚しない自由、恋愛しない自由も彼女らにとっては理想でしかなく、現実路線とは程遠いという無意識のうちの理解があるのではないだろうか。それに依然として恋愛することが正しいと思わされるような空間に彼女たちが生きているのではないだろうか。恋愛シミュレーション番組や恋愛ドラマは尽きることなく量産され、それらのターゲット層である女の子たちは知らず知らずのうちに恋愛脳になっていく。
こうした番組やドラマは所詮、娯楽に過ぎないのだが女性にとって恋愛が男性よりも生活と地続き感があるのが私は恐ろしく感じる。ついこの前まで娯楽として消費していた恋愛が二十代半ばにして人生を左右する大きな要素に様変わりしている。男性の恋愛にそれほどの重みがあるだろうか。
私は今日もルノアールで女の子たちの会話を盗み聞きして、面白がったり憂いたりしていた。