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#11 カフカ短編『万里の長城』

うーむ。
これまでの作品とは明らかに趣が変わっている…。
一度読んで、いつもとは異なる感じの不明瞭さがあったので、もう一度読み返した。

タイトルを見て分かる通り、誰もが知っている「万里の長城」について書かれているのだが、主には建築に関する論究が書かれている。
ここでのポイントは工事方式。万里の長城は「工区分割方式」で工事がなされているということだ。
それはつまり、数人のグループを作り、そのグループごとに担当する地区が定められ、担当地区ごとに工事が進められる方式である。
南東と南西、つまり両端から着工し、真ん中を目指して作り上げるということになる。グループごとに500mの城壁を担当するという決まりがあったようだ。そして担当作業を終えたら全く別の工区へ送られる。500mに区切ることによって、出来上がったという一つの達成感があるので、モチベーションが維持できるということなのだろう(しかし、500mの工事でも約5年かかるとのことだ)。
そうでもしないと、いつ終わるのかが分からない果てしない労働の虚しさに現場の者は精魂尽き果て、不安、絶望、世界への信頼も失いかけたりもする。そうならないためにも、「工区分割方式」が採用されている。だが実際には、工事が手つかずのまま歯抜け部分も存在したとのことだ。

世界的に有名な観光地でもある万里の長城は、21000㎞以上にも及ぶ気が遠くなるような長さとなっている。
そういえば、数年前北京に行ったけれど、万里の長城には行ったことがない。いつか長城の滑り台すべってみたいな…。

HISより


というわけで、この作品では「工区分割方式」について語られるのだ。

わたしがこの問題にこのようにこだわるのは奇妙だと言われるかもしれないが、そうではない。さしあたりは大したことではなさそうだが、これこそ万里の長城建設にとって核心に当たる問題であり、あの当時の思想と体験を伝えて理解してもらうためには、ぜひともこれにかかずらわなくてはならない。

本文より

ここでの「わたし」は、どうやら南東部出身の工事に携わる者らしい。
この「わたし」の視点で万里の長城建設についての思考が語られている。
その思考は、中国人の民族上の仕組みや国制、歴史などからも絡んで語られる。
その論究は途中で打ち切りとなっている。

銀座・文明堂カフェで

実は今回も、岩波文庫版と白水uブックスと若干の異なりがあった。
異なりというか、白水uブックスの方には、『万里の長城』の他の断片が追加して収録されている(『狩人グラフス』と同様)。

読者視点からいえば、岩波文庫版の方が、なんとな~く終わった感があるけれど、カフカが好きな人にとっては白水uブックスの方がいいと思う。なんとなくだが、この追記部分が本来のカフカっぽい気がするから。
それは、10歳の頃の「わたし」と父の話になる。2ページほどの短い追記ではあるが二人のやりとりがそう思わせる。

父はもの思いに沈んだままわたしに向き直り、キセルを叩いてから口に含み、わたしの頬を撫で、頭を引っぱった。わたしはそうされるのが大好きで、小躍りしたいような気持になる。

本文より

結果的に途中で終り、この作品もまた未完である。

はじめに私が思ったのは、気の遠くなるような長城建設に関わる「わたし」が思考した、回りくどい現実逃避の一種かと思ったのだが、追記部分を考えると、長い前置きからの、父親との関係へ話を持って行きたかったのかなとも思ったりした。

一方、訳者池内紀氏の解説には、万里の長城の工事方式「工区分割方式」を小説執筆の方法と重ね合わせて言及されていた。

ここに語られてることは、実を言うと、そっくりそのまま長編『審判』の描かれた過程に当てはまる。〔…〕各章は「工区分割方式で」書いていく。いずれ長大な「城壁」として長篇小説が完成するはずだった。工区分割の方式によって終わりが先に書かれていたが、にもかかわらず小説は「手つかず」の個所を残したまま放棄された。

『万里の長城』読者のために

なるほど…。そんなことは全く知らなかった。
長編は『城』しか読んでいないから、『審判』もいつか読んでみよう。

ドリンクのコースターは文明堂豆劇場
三時のお八つは文明堂~♪


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