断想
毎日毎日、死のことを考えてしまう。
先日も、自分の番組の中でそれを言ってしまった。
毎年のように同世代の仲間が次々と急死していくのだから、次は自分の番ではないかと思うのも当然のことだろう。
つい最近も、自分より少し若いだけの知人の男性が、一人住まいのマンションの一室で孤独死したと知らされた。たいてい発見されるのは腐乱死体である。
こんなことはしょっちゅうになっていくだろう。
ジョージ・オーウェルは「一書評家の告白」というエッセイの中で、散らかった寝室兼居間の書類と手紙とゴミと請求書と未開封の郵便物の混ざった紙の山の中で、「探し物をしなければと思うと、それだけで猛烈に自殺の衝動がこみあげてくる」と自嘲気味に書いている。
※出典「一杯のおいしい紅茶」ジョージ・オーウェル著 小野寺健訳 中公文庫
マーラーもモーツァルトも、死という観念自体が友達のようなものであった。だがそれは悲劇の天才の証明というわけではなく、むしろ誰でもそうなるのだということに最近は気が付いた。年を取ったせいだろうか。
とにかく毎年、忙しくなる一方である。時間ができたらやらなければ、と思っている仕事がたまるばかりで、急ぎの案件ばかりが増えて、追いまくられている。
そうこうするうちに、間近に迫った原稿の締め切りのことを気にしながら、無為のうちにあっけなく死んでいくのではないかと思うと、悪寒がしてくる。
寸暇を見つけて、ようやく、東京ニューシティ管弦楽団の第139回定期演奏会に出かけた。2週間ぶりのコンサートである。なぜか自分には全然時間がないのである。
杉山洋一さんの指揮で、レスピーギ「鳥」、カスティリオーニ「クオドリベット」、マルトゥッチ「交響曲第2番」というイタリア20世紀のオーケストラ音楽の歴史の知られざる側面を知ることのできる好プログラム。
カスティリオーニは高橋悠治さんのピアノ。軽やかな脱力で、得も言われぬ妙音が東京芸術劇場コンサートホールを無理なく自然に満たした。誰が聴いても、とてつもない達人であることが歴然とわかる演奏。若いオケ団員の中には何名か、顔を輝かせている人も見られた。若い音楽家にとって、悠治さんという存在自体が、とても自由で新鮮に映るのだと思う。
マルトゥッチは、ロマン派のさらにその先を行く、すごく密度の濃い音楽。楽器の使い方が緻密で、エネルギッシュで、常套的でない展開の面白さがある。こんな珍しい、しかし名曲を、杉山さんが紹介してくださったのは素晴らしい。オケの定期にふさわしいプログラムだ。
杉山さんの解説文によれば、ドイツ・ロマン派を研究して器楽に秀でたマルトゥッチ(ブラームスとも交流があったそうだ)の存在があってこそ、プッチーニやマスカーニ、そして弟子のレスピーギが続いたという。
杉山さんは作曲家であり、現代音楽の指揮者としても比類ないスペシャリストだが、こうしたオケ定期で見事な啓蒙的プログラムを組んで、オケにとって珍しい楽曲でも成果を上げるというのは、本当に素晴らしい仕事だと思う。
ちなみに私からのマルトゥッチのオススメは「タランテラop.44-6」。悪魔的な迫力があって、演奏効果はとても高い。つい最近、OTTAVAでの自分の番組でも、中世ペストの歴史についての本の紹介のあとにオンエアしたことがある。