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お金もらってるんだからちゃんとやってよ、について考えた
最近、このテーマについて怒りを感じてたなーと思ってそれについて考えてみた。
わたしは潜在意識の書き換えや、もやっとするたびに感情と向き合うことをこまめにしていたので、怒っている自分を他人事みたいに見れるクセがついてきていた。
あーなんか怒ってんなー。なんでそんなにイライラしたんだろ。あ、そうか。本当はこうして欲しかったのか。こういう思い込みがあったからなのか。そんな感じにぼんやりと怒りをながめる。
怒りという感情は効率が良い。
潜在意識の書き換えにもっとも都合が良くて、手放しに最適な感情だ。怒りが出てきてくれたらしめたものなのである。
心理学的に二次感情と言われている"怒り"は、その奥にそれを引き起こした一次感情がある。
怒りは、心理学的観点では「二次感情」と呼ばれ、その原因となる感情を「一次感情」といいます。
一次感情とは、悲しみや不安、悔しさ、恐怖、驚き、嫌悪など、一般的に認められている基本的な感情です。
最近わたしは
「お金もらってんだからちゃんとやってよ」
っていうテーマに、毎回やたらと怒りが湧いてくるなあと思うことが続いて、都度それについて考えていた。
カフェでイラッとしたこと
午後の15時に立ち寄ったカフェで、
「お米ないのでごはん料理が出せません」
と言われる。
え、どういうこと?
開店時間は11:00〜18:00
15時なんて特別そんなおかしな時間でもないし、お茶するついでに食事もしたくて来店するお客様もいるはずだ。
そんな時間にお米がないなんて舐めているとしか言いようがない。しかも、たとえばパスタとかグラタンとか、お米を使わない料理もあって「ごはん料理だけ出せません」ならまだわかるが、
メニューのすべての料理がお米を使ったものなので、実質食べるものがないのだ。その状態でお店を開けてるっていうのはどういう了見だ?
米を炊くか、店を閉めてしまえ。
そう思った。
お茶ついでに遅いお昼ごはんを食べようと腹ペコで行ったからよけいにわたしはイライラしていた。
「田舎ってそういうこと、普通にあるんだよねー」
一緒に行った友人はのんびりしていたが、「平日の15時なんて暇だし米がなくてもそんなに客来ないやろ」で店を開けられていたらたまったもんじゃない。わたしの腹ペコと、このお店に寄せた期待はどうしてくれるんだ。
しかも、出せないはずのランチメニューが、おいしそうな写真入りで所狭しと並べられたテーブル。オムライス。ハンバーグ。カレー。
出せないなら目の届くところに置くな。気遣いのカケラもないのか?そんなことはめったにないのに目に入るものすべてがイライラして、結局何も注文せずに店を出た。
イライラのワケ
・プロ意識の裏返し
・サービス精神の裏返し
・ビジネス的な観点での評価
これは自分がサービスを提供する側だったら、絶対そんな状態でお客様を迎え入れないぞ!自分だったらそんなことしないのに!喜んでもらいたかったらもっと全力でお客様のことを考えるのに!と思うビジネスとしての怒りである。
それは提供する側でなく、サービスを受ける側に回ったとたんに裏返しとなり、お金もらうんだったらそれ相応のサービスを提供するのが当たり前でしょ、それをしないのはお客様思いじゃないし、怠惰であり手抜きである、と思うことにつながる。
それは仕事人間だった自分の、仕事への向き合い方の価値観そのものだったし、喜んでもらうためにはこれくらいやって当然、という視点で物事を見るクセがあるよなーと思ったくらいだった。それができていないと思う人を見るとわたしは以前からイライラするクセがあった。甘いんじゃないのか。プロ意識が足りないんじゃないのか。なんでもっとお客様のことを考えないのか。
その基準が高ければ、当然自分がサービスを受ける側になった時に求めるものも多くなる。
60万のコーチング
ビジネスを教えてもらうため60万でコーチングを買った。
このコーチが電話とLINEし放題サービスを提供していたのだが、LINEしても2〜3日返信がなく聞きたいことも聞けなくてずっとイライラしていた。セッションはたんなる世間話にしか思えないし、質問にも思うような回答を得られず、もやもやする日々。
ほかのコーチングの水準がわからないが、期待するクオリティとはかけ離れた満足度の低さで、え、こんなもんなの?と思った。
わたしはこんなもののために60万も払ったのか?
とお金の価値の概念がくつがえされそうになった。
LINEを返信しない間、そのコーチは毎日こまめにTwitterで自分の成果を報告していた。
LINEがかえってこなくて彼氏のインスタを監視する女子の気持ちがはじめてわかった気がした。
こんなクソみたいなサービスにこの値段つけるなんて舐めてんのか。安くないお金もらってんだからもっとちゃんと値段に応じた満足度と価値提供してよ。高額商品売り付けすぎて金銭感覚マヒってんじゃないのか。
と思っていた。
わたしは自分からコーチングをやめた。
なぜこうなったのか
・被害者意識
・受け身の姿勢
・他責思考
わたしはお金さえ払えば誰かにどうにかしてもらえると思い込んでいた節があった。
お金は願いを叶えてくれるアラジンの魔法のランプじゃない。
そのコーチを選んだのは自分の責任だし、「何もしてくれない」としか思えない他責思考も、ずっと会社員で恵まれた環境を与えられてきたわたしの思考の癖だ。
正社員だから、会社員だから、守られているから。
そうやってわたしは
「与えてもらって当たり前の権利」
をずっと享受してきても、それをあらためてありがたいとも思わなかった。
当然だと思っていた。
不当な残業や待遇には抗議できる権利があったし、守られている範囲でなら自分の意思も最大限尊重してもらえた。
とんでもなく一方的に、何不自由のないぬくぬくした場所を与えられていても、そのありがたさを忘れてしまうくらいに。
これくらいしてくれて当然でしょ、してもらえる権利が自分にはある
という考え方は、完全に守られた会社員生活での依存とぬるま湯の中でつちかわれたものだった。
お金を介さないと生まれない言葉
思い返すと、わたしはなにげなくこのセリフを、何度となく言ってきた気がする。
納得のいかない水準のサービスに合ったとき
テキトーな態度でお客様に向き合う同僚を見たとき
それはどこからきていたのか。
そして思い出した。
新卒で社会に入りたてのころ、患者さんに
「お金もらってるんだからちゃんとやってよ」
と言われたこと。
その患者さんとは良い関係性を築けていたと思っていたのに、そして喜んでくれてもいると思っていたのに
なんか無機質な、機械的な、そして威圧的な言葉に急に距離を感じたのを覚えている。
わたしはここで、お金さえあれば人を思いのままに従わせたり、コントロールすることに慣れてしまうことの怖さにようやく気づいた。
お金を払ったのに相手が思ったようにならなかったり、当然と思っているはずの権利が得られなかったときに、怒りが出ることも。
クレーマーというのもその原理でできあがる。
あのペラペラの紙をあいだにはさむだけで、"感謝"を"当たり前"に変えてしまう力があるからである。
そしてそれは無意識に、自分の言葉に現れる。
「お金もらってんだから、ちゃんとやってよ。」
と。
それは決して対等ではなく、従うか、従わせるかだけの、相手を尊重してもいない思いやりのない言葉なのである。
お金さえあれば。
お金は水戸黄門の印籠みたいに、絶大な力を発揮する切り札であり、なんでもできる魔法のランプだと思い込むことが
人を傲慢にさせて、本来人同士がかかわるときの愛とか、思いやりとか、尊重とか、当たり前じゃなくて与えてもらってありがたいなという思いと遠ざけてしまう。
上下関係、優劣、差別、不平等
資本主義社会はクソでおかしくて、一部の人だけが得をして一般庶民は搾取されるだけのゆがんだ仕組みは早くなくなってしまえばいいとずっと思っていた。
でも誰よりもそのゆがんだ社会の仕組みの恩恵を享受していたのはわたしなのである。
人を価値でしか見れなかったり、対等な思いやりの心を忘れて傲慢になってしまっても、お金さえあれば生きていけたのは資本主義のおかげだったからだ。
でもその残酷さと、心の貧しさに気づいたからには、きっとそれを続けていくことはできなくなるだろう。
わたしは魔法のランプがなくても心の通った関わり合いと感謝をもてる人間になりたい。