散文日記 - 『動物・気違い・死』J・P・ペーテル
昔住んだ駅で人身事故。
夕暮れが綺麗な駅だった。
どの辺かな。
ホームかな。
わたしがあの駅で死ぬなら、八王子側の、夕日が一番綺麗に見えるあそこを選ぶ。少し細くなっている、遠くの山が微かに見えるホームの先の、白い柵を跨ぐ。夕暮れ時には黄色になる、あの剥げた柵を。
立ち入り禁止。生きているのなら。
どんなひとだったかな。
疲れていたかな。それとも、ずっと前から決めていたのかな。
遺書、書いたかなあ。
死ねたかな。
死ねてるといいなあ。
人体を手放すとき、嬉しかった?
どんな気分?解放感?
命を託したその列車が、線路が、運転手が、何も感じていないことが、救い?
それは、一瞬にして人体を消してくれる美しい文明の塊。文明形成のために人々は命を捧げてきた。そこには死を決意した天使の微笑み。悪魔かもしれないがそんなことはどっちでも良い。これが我々の辿ってきた道なのである。
窓を開ける。涼しい風が人体に触れる。そこに広がるのは日常で、貴方が死んだことなど誰も気にしていない。人身事故は明日も起こり、電車は遅延する。わたしたちはまるで当たり前のことのように、「今週は多いですね。」とか、「67分停められましたよ。」とか笑って言い合う。ははは、今朝もあったのに、またか。参っちゃいますね。そうそう、この時期は多いんですよ。はは。
そうそう、参っちゃいますよ。こんな人生。
何千人ものひとがこの線路上で死んだことを思い、わたしは恋に落ちる。
その日死んだ人がどんな人であったか知ったとて、わたしはすぐに忘れるだろう。世界はそうでなくちゃならない。
人が自ら命を経つことも、愛する人が死んだときに泣ける人も、美しいと思う。わたしがこの先、一生手にすることのないであろうその潔い涙を。「死なないで」と言える人生を。がらくたなんていらない。それだけが欲しかった。はずなのに。泣けない人生はこんなにも苦しい。
【余談】
『動物・気違い・死』はジャン・ピエール・ペーテルによる評論文。彼はM・フーコーの犯罪心理学研究に参加し、1835年、フランス国内における農村殺人に関する論評(しかもこれが家族殺しとカニバリズム!)を執筆した。その文体があまりに美しくわたし一個人の好みであったため、彼について調べたが、そのありふれた名前のため資料はヒットせず彼が何者なのかは分からなかった。本文はM・フーコー『ピエール・リヴィエールの犯罪 狂気と理性』(河出書房新書 岸田秀/久米博 訳)からの引用。医者か、評論家、もしくは哲学者あたりだろうか。タイトルから良いなぁ。
ところでこれ、仕事中に書いただろって?
いやいや、そんなこと、しませんよ。なんたって真面目ですから。
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