∃x [F(x)y (F(y)→x=y) AB(x)]散文
万物は流動する。
初雪のあとの朝だった。溶けた雪は水滴となり、きらきらと、音を立てて滴る。
松ぼっくりのお茶は苦くて飲めない。
白い靴下を履いたネコはこっちに来ない。
ジムニーのワイパーを上げておくように頼まれる。
灯油の匂い。子供の頃、わたしの住んでいた地域には灯油屋さんのトラックが毎日町内を巡っていた。
日本の冬の空気を、まるで忘れていた。
「君に、何してあげたらいいの?」
わたしは考えた。
今生だけでも、数え切れないほどのひとたちの、背中を無責任に押してきた。
突き落としてしまった経験が大半を占めていたが、なかにはそうでない人もいた。その人たちのことを恋しいかと問われればまったくそんなことはなくて、彼らが生きていようが死んでいようが、わたしには関係のないことだった。
この物質世界で、実はもう、なんにもいらなかった。
すべてはエネルギーだ。それは循環する。そういう流動体、すなわち服とか食べ物とか家とかお金とか、そういうものにわたしの心の内が動くことなんてもうなかった。わたしには人をほんとうに大好きになったことも、大嫌いになったこともきっと、なかった。あったと思いたいだけだった。強いて言えば、読書とか、音楽とか、哲学とか、数学とか、そういう他人が人類の歴史の中で作り上げたなにかに触れたとき、記憶された点と点とが繋がって線になる瞬間、あの瞬間だけが”喜び”で、それ以外の何ものも、どうでもよかった。それでさえ言語とか、音とかに縛られた一部分しか我々には見えないのだけれど。
「もうわたし役目終わったかもしれない。」
西からきた人がその空間にいたせいで、”終わった”の発音を少し西に寄ったものにしてしまった。
台風で帰れなくなった国分寺のシーシャバーで、店主にしてもらったタロット占いは外れだと思っていた。少なくとも、わたしの愚かな脳はそのときそう判断した。
「あなた、子どもを救う使命があるよ」
「いや、それだけはない気がします。なんなら子宮取ろうとしてますけど…。」
彼は笑っていた。わたしは見知らぬ、30分前にTinderで逢ったという若いカップルと、店主との4人で煙を吸った。ピザを頼もうと誰かが言ったけれどそうしなかった。地下一階の狭い店はじめじめしていた。わたしの顔は整えられていたかもしれないが、疲れていただろう。
「来週も先生のクラス?」
「そうだよ。待ってるよ。」
「おっけー!さよなら!」
「またね。」
彼は多分天才になる。根拠はない。
学校に馴染めないから、行っても保健室にしか行けないという。
わたしは彼の鞄を右肩に背負い、帰りたがらないその少年の手を引く。
ラッセルはフレーゲの量化理論を分析哲学に用いた。21世紀、子どもたちが学ぶまでに達したプログラミングは、論理実証主義の究極の答えなのか否か。時代は変わり、退化し、繰り返す。それだけがここにある。愚かな物質世界の成れ果てに、答えを欲する人類の救世主は神か、数学か。どうでも良いことだ。
「これからは、ご褒美かもしれないよ。勉強だけできる日が来るかもね。」
ガラムと灯油の匂いが混ざる。
あなたは誰?どこから来たの?
聖歌隊は今でも変わらずクリスマスを謳う。今年のわたしの推しはロンドンの合唱団、LiberaのHenryくんだ。わたしの周りはよくひとが死ぬ。飛び降りた昔の恋人はお笑いが好きだった。ドラックで寿命を縮めたKくんは筒井康隆と澁澤龍彦が好きだった。ALSになってしまったFくんは映像作家だった。彼のカメラはCanonだ。わたしたちはAdobeのPremierとAfter Effectsを在日中国人大学生のハードディスクから転送した。お礼に日本の月餅をあげた。厚木のイオンで絵コンテを書いた。斎藤さんは水疱瘡が一生治らなかった。よく調べたら、エイズだった。声をかけたら店内で泣き出してしまった。
なんでわたしだけ生き残ったのだろう。
年金申請の用紙は波乱万丈なほど長くなる。
「なかなかいないんですよ。若くて2枚目にいく方は。」
初雪の思い出は最悪だ。晩秋の東北で、トヨタのカローラの後部座席で窓の外を眺めていた。わたしはただ両親の別居の話し合いを聞いていた。「雪だよ」と言ったけど誰も気づかなかった。そのときのことを俯瞰できるから、きっと走馬灯になるのだろう。シルバーのボコボコのカローラ。まだ仙台ナンバーが登場する前のことだ。
うっすら積もった雪を、澄んで見えた月を、念のために写真に収める。
折に触れて思い出せる硬い土とゴム製の靴の立てる音。
寒さで感覚はなかったけれど、そのほうが楽だと知っていた。他の部分も早く凍傷になればいいのにと思いながら歩いた。誰も喋らない。霧で行く先も見えない。
それでも雪だと知っていた。
【余談】
灯油代高え。
聖歌、ウィーン少年合唱団も良いけどLiberaがツボ。