微睡み散文
※フィクションです。
ここ最近、流れる時間は希死念慮と自殺願望を払い除けることだけに遣われていた。人と話すと、それらは薄れたように感じる。そのあとに、やっと訪れたように感じる、薬で得た深い眠り。目が醒めてわたしは気付く。やはり、そんなこと自分にはできないのだ。
わたしは死にたい。
"生活" をしている人をみて気付く。ふつう人は、"生きるため" に生活するのだと。漢字だってそういう文字じゃないか。
わたしの "生活" はただ "死なないため" に遂行されてきた。 自分のその弱さ故、死を避けてふらふら歩けてしまっただけである。そしてわたしは、はっきりと認識している。これから先、自分に上手く生きれる日など訪れないと。そうして再び自覚するに至る。これ以上生きる必要は、何処にも無いと。
それは確かに、病的なほど強い希死念慮かもしれない。それは今がいちばん落ちているからかもしれないし、ただ自分がそういう人間なだけかもしれない。どちらにせよそんなことはどうでも良い。一生知り得ないのだから。だけど自分がこういうことを常に考えながらこれまで生きてきたことだけは解る。それは主観ではあるものの、わたしにとっては、紛れもない事実なのである。生活は間違いなく虚しく、人生はこれでもかというほど苦しい。これをこの先、何年も続けるって?自然に死ぬまで?冗談じゃない。
では、何故?続けてきた?
東洋思想は齧る程度しか知らないけれど、孔子の言葉でよく覚えているものがある。
ソクラテスの「無知の知」なんかより、なんとなくしっくりくる言い回しだと、論語の解説を初めて読んだときに思った。(その二者が同義か、という話はここでは展開しない。)
"生活" を教えてくれた友人のために。彼女は頼ることを、優しさを、教えてくれようとしている。わたしはそれを知らなかったので学ぶ必要があるが、なかなかうまく飲み込めない。
死に捕まった身でわたしと話すことに時間を割いてくれる人のために。彼の死の過程にわたしは入り込みさえしたいと思う。美しいのである。
「もったいない」と言ってくれる人の言葉に。文章を残すことは確かに、死なない意味になり得るのかも知れない。流れゆくすべての時間を注ぐことだってできるのかもしれない。
知識欲のために。わたしは1732年にルブラとエスケースがパリの同じ部屋で死んだとき、ふたりが交わした言葉を知りたいし、ピエール・リヴィエールが首を吊る前に何を思ったのかも知りたい。
だが、孔子でさえ知っていた。全ては知り得ない。世界は曖昧なのである。現に自分はなんとなく流され、 "死なないで" いるが、完璧主義のわたしはその事実を、その曖昧さを、いつまでも受け入れられない。
医学的にはわたしは双極性障害であろう。うつ状態という名の混合状態で、最も危険に見えるはずである。現に何故か、薬はちゃんと飲めていないらしいし(残量が計算と合わない)。目が醒めるたび死ぬことを考えている。先ほど浅い眠りから目を開けたときに閃光が走ったが、それが現実かどうか確かめる方法をわたしは知らない。
この激しい波を繰り返すたび、脳は少しずつ萎縮し自殺率は上昇する。仕事も恋愛も続かず、破天荒な行動で社会的に孤立する。理解はされず、薬を辞める日は来ない。その果ては、寛解か、自殺か、発狂。どれを選んでも独り。きっとその通りである。
医学は死を敗北としたことで成り立つ学問だ。だが、わたしにとっては "生" が敗北なのである。
なんとなく天井を見つめて、もう何時間も流している、ある人が教えてくれた「忘れじの言の葉」という曲に身を委ね、また目を閉じる。
人が死ぬと、人体は腐り、名前だけが残る。だから、1名、2名と数えるらしい。この歌詞のように、わたしが300年前に生きた作家を好きなように、忘れられることのない英雄だって世界にはいる。
だけどわたしは、英雄じゃない。
ああ、大好きな友人のいるところで死ぬことだけはできない。わたしは、彼女が好きだから、この人を悲しませる人は嫌いだ。わたしは彷徨わなければならないし、多分病院にも行かなくちゃいけない。それにスーツケースからパソコンを引っ張り出し、思った限りのことを文章にしてしまった方が良い。もし死なずに渦中を脱したら、忘れてしまうこれらの説明しがたい、一貫性のないこの感覚を、思考を。
この記事を投稿するか、下書きにしたまま、また少し考えていた。
生きていれば、会いましょう。