生活のために働く?
昔から疑問に思っていることがある。「生活のために働く」という言葉である。
生活とは具体的に総括的にいったいどういうことを指し示すのであろう。一般的には社会の中で暮らしていく程度の経済力を保持していくということだろうと思う。私たちの社会は貨幣がなかだちとなって、暮らしていくために必要となる食事や娯楽等を享受する仕組みになっているから、お金を得ることは大変重要となる。
しかし、である。一応は最低限の暮らしができる日本社会で、生活のために働くということを無批判に受け入れられるのであろうか。かなり前のことで、加えて、会社社会に限定した話になるが、過労死やリストラが問題となった時代があった。パワハラやセクハラもあったし、今ではブラック企業という言葉もある。
その結果として、精神的なストレスをためすぎて、鬱状態になる人もいるし、その中の少なからぬ人たちが自殺していく。極例かもしれないけれど、こうした場所にしか就業できず、そして精神的に病んでしまうことが大いに予期される場合においても、人間はやはり、「生活のために働く」必要があるのであろうか。
私が幼い時はまだ日本はイケイケで、一億総中流社会と呼ばれていた。私も自分の過程が中流なのだなという意識を持っていた。逆に終身雇用制は健在で、サービス残業は当たり前の時代でもあった。仕事の結果によるストレスや鬱についての理解は今ほど進んでいなかった。
しかしながら、逆にいえば、雇用の保証はされやすい構造であり、正社員の割合も極めて高い社会であり、大きくは望めなくても、それなりに飲食をし、娯楽を愉しむことが十分にできたのである。こうした構造が中流意識を醸成していったのだろう。
しかし、今や正社員が主体であるとは限らないし、正社員を目指すことも難しくなった。雇用も終身的に保証してくれるわけではない。ゆえにこそ、専門的なスキルの獲得が求められたり、ユーチューバーなどの多種多用な活躍の道が開かれているのであろう。
そう、専門的なスキルを活かしたり、インフルエンサーになるような存在になればいい。しかし、そうではない凡夫の場合はどうすればいいのだろうか。今までのように正社員を目指して就職するのだろうか。とりあえずの戦略としては手堅い。しかし、以前に比べれば、正社員の身分保障は非常に心許無いのが、現代社会ではないだろうか。
最初に述べた生活という定義に照らし合わせれば、依然としてお金は必要なものとなることに変わりはない。しかし、仕事をすることによって、お金を稼ぐという点に関しては、一億総中流社会時代と変わらないものの、ではその稼ぎに満足かといえば、甚だ心許ないという方も増えているのではないだろうか。
漱石の作品には高等遊民という種族がよく登場する。財力はあるし、働かなくていい身分で、且つ、本人にも働く意思はない。こういう人たちについては、むろん、「生活のために働く」という公式は通用しない。しかしながら、私はこういう人たちについて、必ずしも否定的ではない。
認めてしまえば、私は生活ということの実現のためにリソースを使用するのが好きではないのであろう。そして、生活ということを最大目的にしてお金を稼ぐということに強い抵抗を受けている。生活のためにたくさん働いて、身体を壊した人たちを身近に見ているせいもあるだろうし、昨今ならば、不労所得を得る道もあるだろう。
なお、根源的にいえば、お金を得る目的とはなんだろうかということも考えてしまう。お金を得て、いい暮らしというものをする。すると幸せという感情が生じ、人生が大変充実したものになる。このような流れが成立するならばいいけれども、どうもそうは思えないのだ。
私自身の経験から述べるだけだけれども、モノを得るときは幸福感に包まれる。しかし、やがてそのモノに慣れてしまうと、もっと上位の幸せを感じさせてくれるであろうモノを求める。しかし、その上位のモノを得てしばらくすると、またさらに上のモノを求めたくなる。
シシフォスの岩ではないか。キリがないように思える。
お金とモノとは異なるのだという意見もあろう。なるほど、お金は様々なモノと交換可能だし、モノに対して使用する必要はない。であれば、お金を希求していくのがいいのだろうか。
一般的には社会の中で暮らしていく程度の経済力を保持すること、すなわち生活を実現するためにはどれほどのお金が必要なのだろうか。
具体的な部分では個々人次第というほかないだろう。だが、より抽象的な次元で述べれば、おそらく生活の実現に対する満足度は他者との比較によって決まるのではないか。換言する。他者との比較をする傾向が高い人たちは生活に満足する可能性が低いと思う。だから、働いて稼いだとしても生活を成立しえない可能性が高いと思う。殊に一億総中流社会が崩壊し、二極化が進んでいるといわれている昨今においては、比較という人間の業によって、生活の存立が規定されるのではないかと思う。
つまり、生活のために働いていても、そこに他者の視線を多く感じる人は生活のために働けなくなる。逆に他者の視線を感じないで生きられる人は生活のために働くことで満足を得る可能性が高い、と推測する。
比較は要はその人の観念の問題である。私が「生活のために働く」という言葉に違和感を持っていたのは私がよく比較する人間だからだろうか。
たぶん、そうなのであろう。しかし、それでは自分でつけておいたタイトルを自分自身で完結化してしまうことになる。
デフレという未曽有の自体を30年も続けている国家が我が日本である。将来に対する期待というのは極めて薄いと思う。雇用も流動的で雇用維持がされないことが多くなるという要素を鑑みると、個々の環境や性質はより一層重視されると思う。つまり、比較がより一層激しくなる社会となる。
この状況が続くなかで、比較を命綱に生活のために働いていくことが、個人的に、また社会的に有意義なことなのだろうか。
考えがまとまらず、したがって、文章も右往左往したものになっているがお許し願いたい。もはや日本には右肩上がりの時代は到来しないと思う。人口の減少は進んでいるし、その分だけ生産力も落ちる。加えて、デフレがとまらなければ、さらに「生活」は苦しくなる。一方で社会の二層化で「生活」をどんどん余裕あるものにしていく人たちが出てくる。比較の視点が非常に強くなってくるような気がするし、凡夫としては、上のような社会の変遷がほぼ自明であるのに、「生活のために働く」ということを無批判に述べている人たちを勝手にさばいていたのだろう。
そして、漱石の作品内の高等遊民に対する無批判に関しては、私自身が生活というものに束縛されずに、余裕をかましたいからなのだろう。そう思うと非常に陰鬱になる。
人間には生きがいというものがある。が、これもすべての人たちが有しているわけではない。すべての人たちに生きがいを求めるのは残酷である。生きがいなどなくてもまったく問題がない封建時代の方がまだ肩の荷が楽だという見方もできるかもしれない。
結局のところ、自分自身で発した問いを自分自身で完結させるようになってしまうが、「生活のために働く」という言葉に違和感があるのは、私が下流の人間であり、比較を多種多様にしながら、より一層、生活という場が不安定になることに対する恐怖感が根底にあるからなのだとは思うが、現今の社会状況や経済発展の有様を見ると、私だけの見解ではないような気もする。
したがって、試みに書いてみた次第である。
いわゆる漱石の三部作を紹介したが、今現在、私が読みたいかというと、どうも現実逃避しているような心持ちもするし、主人公たちに余計なルサンチマンを抱いてしまいそうな気もして、おそらく司馬遼太郎の短編集などを読むとは思う。が、生活や仕事ということを考えるときに、高等遊民の姿勢も一つの参考にはなると思う。ゆえに、著名な本だが、上に紹介してみた次第である。