『吹雪の社』
さむい。寒い寒い寒い寒いっ。
女はひどく冷えていた。白く、透けるほどほっそりとした四肢を容赦なく風が打ちつける。
心のそこに寒さが棲みついたように、灼けるほどの氷炎がついぞ体から離れない。
地は踏むごとに雪を帯びて、寒さは嫌に肥大する。衣は雪のように白く牡丹を咲かせ、その肌もまた白い。長く氷柱を編んだ髪を吹雪が攫っていく。
女は寒さを連れている。女は寒さそのものだった。
女はこの寒さが嫌いだった。
けれどその寒さから逃れることはできない。
身震いの余地すら与えぬ冷えは、女の意思に関係なく周りを雪に埋めていった。
吹雪は嫌いだ。否応なくわたしを一人にする。
空はいつまでも夜。雲に遮られては月も見えない。
いつからだろう。こんな存在になってしまったのは、果たしていつからか。
遠い彼方に忘れた記憶はもう思い出すことも叶わない。
明かりが欲しい。
女は陽の明かりに焦がれている。
だが凍えを纏う彼女は陽を浴びることはない。女は雪女だった。雪女は陽を浴びれば溶けてしまう。
囲炉裡の灯を求めた。
けれども触れること叶わず、その前に溶けた身体が冷ましてしまう。
ぬくもりを求めた。
けれども人は脆い。
吐息の少しで凍え死ぬ。目の前にあるのに届かない。
女が持ちうるのは、ただ寒さのみだった。
なぜだ? なぜ自分はこうなった。なぜ自分でなければならなかった? なぜなぜなぜ——
疑問に答えるものはおらず、答えのでない後悔は女を摩耗させた。
いつしか寒さは女の怒りへと変わった。
しんしんと降り積もる雪は、やがて憎悪を掻き立てる吹雪となり果てた。
憎い、わたし以外のすべてが憎い。
陽を求めて何が悪い。なぜ叶わぬ。なぜ届かぬ。
ならば死ね。皆凍え死ね。自分だけが浴びれぬなど、そんなことは認めない。
どうせ逃れられないのなら、すべて雪に埋めてしまえばいい。
そうして女は山も川も集落も、雪山に住まう明かりという明かりを自らの冷気で消していった。目に映るものすべて氷つかせた。
けれども怒りはどこにも行き着くことはない。
各地の野山を凍てつけても、いっそう怒りが募るのみだ。
どこまでもどこまでも続く雪原、暗い景色の真ん中で女はひとりだった。
◇ ◇ ◇
ある雪のひどい日だった。朝も昼もない女はやはり吹雪を連れて歩いていた。
絶え間なく続く怨嗟は女の足を休ませない。
だがその目に奇妙なものを捉えた。
真っ白い、一基の鳥居。
雪に打ち据えられてそうなったのかは知らぬが、霞むほどの純白を誇るそれに久しく足を止める。
その後に一件、仄かに光るものが見えた。社でもあるのかと近づけば、裏腹にそれは家の明かりだった。
途端に苛立ちが募る。
だが妙なことに建物はそれ一軒で、社らしきものは見当たらなかった。
両の手を合わせたような屋根に厚く載った雪はぎしぎしと家を軋ませている。さながら寒さで家が縮こまっているようだ。
古い造の家はそれだけで崩れそうで、実際よりも脆く見える。
戸を細く開ける。開けた先から漏れ出した、目の眩むほどの柔らかい燈が硝子のような瞳を撫でる。
眩しさに溶かされないよう、徐々に戸を進めるとほのかに栗の匂いがする。
雪を吸って湿った柱が女を誘った。
思ったより広い家だった。立派な梁に支えられたおえには細やかだが趣がある。うすばりには柿が干されていた。
囲炉裏の火がばちばちと唸る。
階段の反対、蝋燭の灯を向くと、積み上がった本の隙間に若い男の姿を見た。おそらくあれが家主だろう。
風に煽られた板壁がうるさく、戸を開いてもこちらに気づいた様子はない。
少年の面影を滲ませた薄い皮膚は、泣き腫らしたように見える。
灰が混じった黒髪は雑草が踏みつけられたようにやはで、縒れた衿から覗く首筋は屍人のように痩せていた。
読書に耽っている、というわけでもない。書に目を通してはいるものの、表情は上の空だ。
なんて顔をする。煙に撒かれたような曖昧な輪郭。
枯れた目の潤みを溶けた蝋に代弁させた横顔を女は呆然と見つめた。
「あれ、お客様ですか」
もうしばらくその横顔を眺めていたかったが、その前に男がこちらに気づいてしまった。
「……一晩休ませてくれ」
そう零した自らの声を女は疑った。人に頼みごとをするのははたして何年ぶりだろう。
「そうですね。雪もひどいですし……。わかりました。狭い家ですがどうぞ」
不本意だった。が、男の見せた微笑があまりにも印象的だったので、女は一瞬怒りを忘れ床に上がった。
ちょうど夕食だったらしく、ぐつぐつと囲炉裏の上で蓋を開けた鍋が踊っている。ヘラでかき混ぜれば豊かな薫りが燻り出す。
「お前、ひとりか?」
火を避けながらやんわりと問う。男はかき混ぜる手を止めぬまま困ったように破顔した。
「ええ、ここにはオレひとりしかいません」
寂しげな声は遠く涙の気配がある。薄いそれはなぜだか噛み締めるように聞こえた。
黒い瞳のなかで生き物ように蠢く灯は一種の儚さに思えた。湯気で睫毛の下が隠れたのが救いだろう。
懐かしむように口の端が上がった。
「親はいません。幼い頃病で死にました。妹ととふたり暮らしでやっていたんですが……っと、できましたよ」
ヘラが鍋底を擦る音がいやにゆっくりと聞こえた。碗に並々と注がれた煮汁がたぷんっと揺れる。
「熱いですので、気をつけて」
受け取るのを刹那躊躇った。女の手はしんそこ冷え切っていた。触れれば氷ついてしまう。
けれども男の厚意を無下にするわけにもいかず、おそるおそる碗を取る。
不思議なことに煮汁は冷めなかった。碗越しに伝わる痺れに似た熱がじんわりと手に広がった。
「熱っ」
「大丈夫ですか」
なにが面白いのか、けたけたとから笑う男にむっとした表情で応える。
「……温かいものは苦手だ」
「すみません、お嫌いでしたか?」
「そういうわけではない。だが、やはり苦手だ」
拗ねたようにそっぽを向く女に男はやはり笑っていた。芋の溶けてとろんだ汁はあつくて、味はよくわからなかったが箸は休まなかった。
「猫舌なんですね」
笑いながら男は頁を捲った。盗み見ると殴り書いたような文字が綴られていた。女には判別不明だが、男には読めるらしい。
箸先を舐めて綺麗に平らげると、男が一向に手をつけないのを不審に思った。
「お前は食べないのか」
「いえ、実はオレはもう食ってしまったので」
男は心底嬉しそうに笑った。儚い表情だった。まるで表情に慣れていないように、笑顔はぎこちなかった。
しんっと胸のあたりに形容のない感覚がはしった。男の目はこちらに向いたままだ。
「なんだ……?」
「いえ、その」
「なんだ?」
男がじっとこちらを見つめてくるものだから、つい睨めつけてしまった。男はきょとんとした顔で首を傾ぐと恥じらいを隠すように笑った。
「いえ、その……あまりにもあなたが綺麗だったからその……、つい見惚れてしまって——」
言葉の意味をわかりかねた。しんっと胸のあたりに再びあの感覚が奔る。意味を解りかねたが、その言葉が女の何かしらの琴線に触れてしまった。
急速に熱が冷めていく———。
「わたしは雪女だからな」
ごうっと強い馬なり風が壁を貫いた。ろうそくの火は掻き消され、煙が夜風にさらわれる。
歪な音を立てて、寒さが舞い降りた。
気づけば、女は男を押し倒していた。家の奥はしんっと静まり返った。
体温が奪われる。呼吸すら痛む寒さに男の顔が歪む。
「わたしは雪女だ。————だからお前を殺す」
不意に、唐突に、そう結論づけた。どうしてそう至ったのか女自身もわからない。だが、この冷えは女から熱を消し去った。
「……知って、ました」
だが男から返ってきた言葉は予想外のものだった。
「なに———?」
じっとこちらを視る双眸はまるで雪月。
暗く白い雪の夜を照らす仄光に静かな声が響く。
「オレは———生贄なんです。あなたを祀るための贄、なんです」
ここ数年、各地の集落を原因不明の吹雪が襲った。
その度に村は壊滅し、その原因は雪女の怒りによるものだと噂立った。
噂は広まり、山麓にあった男の村にまでも届き、怒りを鎮めるためここに鳥居を立て、贄を用意したのだという。
「皆んな、捧げ物をすれば、安心して冬を越せると言ってました。幸い、オレはもうすぐ死ぬ身です。噂を信じる気にはなれませんでしたが、こうして現れてくれて本当によかった」
聞けば、男は病だった。治る見込みはない。老い先短い男は贄には最適だった。
生贄——この男はつまり、自分に殺されるためにわざわざこんなところで待っていたのか。
「なぜ逃げなかった? なぜただ素直に待っていた?」
「そうですね……逃げることもできたかもしれません」
対して男は自嘲する。だが、伏せた眉毛の下で瞳を逸らした。
「——でも、もう。なんだか疲れてしまって……」
生きることに。無気力な返答にそれまで力んでいた女の力も抜けていく。
「妹が死にました。親と同じ病です。たったひとりの家族でした」
女はそのとき初めて、男の表情を見た気がした。悲しみとも愛しさとも怒りとも取れる複雑な顔。
「もうオレには何もない。あるのは消えかけのこの命。それももう終わり、最後にあなたのような美しいひとがもらってくれるのなら、いっそ心嬉しい」
喉が灼けるのも構わず、男は笑った。霜を被った睫毛が冴え冴えと羽ばたく。
腹立たしい。
ふつふつと怒りがこみ上げてくる。腸が煮え繰り返るようだ。
人の気も知らないで勝手なことを吐かして、ふざけるな。誰がこんな存在になりたいとおもったか。誰が願ったか。
ひととは、なんと愚かな生き物だ。たかが人一匹で私の怒りが治るか。
愚鈍にも程がある。そのような存在が私の求める陽を持っているとは甚だ憎らしい。
だがそれよりもなお、かつて感じたことのない種の怒りがこの男に対して燃えていた。
なぜ、そんな顔をする。なぜそんなに笑える。
なぜお前はそんなにも、自分の生を軽んじることができるっ!!
「——れ、が。誰が、貰ってやるものか」
「?」
「誰が貰ってやるものか。誰が奪ってやるものか! 侮るなよ、人間。私はお前になど興味はない。お前のような人間、殺す価値もない」
これまで何人もの男を凍てつかせた。どれも皆私を恐れていた。死を恐れていた。それが生きているという証であり、だからこそ女はそれに固執した。
命は陽だ。それを持つものはみな死ねばいい。私の欲しい、私が持ち合わせていないそれを持つものは皆。
だがこの男は違う。自分の生に執着を持たない。いや、生を諦めた軟弱ものだ。
「私はお前など殺さない。お前を死なせない。お前も死ねると思うなよ。お前をどこにもいかせない」
心からの怒りだった。今ままで抱えたことのない種の激情。
腹立たしい。腹立たしい腹立たしい腹立たしいっっっ!!!!
殺してやる。いや殺しなどで済ませるものか。その薄っぺらい顔に消せぬほどの後悔を、忘れぬほどの恐怖を。死すら上回る絶望を。
「代わりにお前には永劫の凍えをくれてやる」
男が声を出す間もなかった。氷柱髪が逆円弧をなぞり描く。月明かりが髪に隠れ、男の視界を遮った。
雲隠れした月が再びみえる頃には、男の眼球は止まっていた。北風が背を撫でるように、淡く哀しい雪吻。
「———」
吹雪を呼ぶ吐息が口から直に男の内に流れこむ。全身は一瞬で霜焼けを起こし、冷気の奔った細胞は痙攣のまま脈を凍らせた。
心臓が止まるのに数秒と至らなかった。
網膜さえも凍った視界にけれども、依然意識はあった。
女のしたり顔が暗いながらも明瞭に見て取れた。
「フフ、死ねると思うなよ」
初めてみる女の無邪気な表情に面喰らった。
それは凍死などという生半可なものではない。死という概念すらも凍らせる氷の契。
消えた蝋燭の、ため息にも似た煙がもくもくと空へ昇っていき———吹雪にかき消された。
外の空気は嫌に増してひどい。連綿とした雪は終わることのない凍獄だった。
「お前は私と未来永劫この凍を味わい続けろ」
男はパチクりと目を瞬かせた。尚もしばらく呆然と黙っていたが、やがてくすっと笑うと女の頬に手を侍らせた。
「優しいですね」
永い疲れから解放されたような、嗄れた笑みだった。女も言葉を否定することなく、そっと手を握り返してやった。
「——バカだな、お前は」
皮膚が凍る感覚も嫌いじゃない。そう思えば、胸の凍えも少しマシになる気がした。
一年中、雪がひどく誰も近づけない場所がある。
なにぶん嵐のように強い風と視界の悪さで、立ち入るものは愚か住う人などおらぬ。だがある場所を境にその吹雪もぴたりと止む。
一基の白い鳥居。雪に打ち据えられてそうなったのかは知らぬが、霞むほどの白さを誇るそれに阻まれるように、吹雪はそこで止んでいた。
その吹雪のなか、目を凝らしてみると、わずかに明かりが漏れているのだ。
噂には、雪女とそれを愛した男がいまでも時を隔たず暮らしているのだとか。
真偽は定かではないが、そう思わせるほどに燈は穏やかなものだった。
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