哀しいめぐりあわせ 『ハツカネズミと人間』
ジョン・スタインベックの作品の中でも一際短い、わずか150ページほどの作品です。初スタインベック。これなら読めるだろうと手に取りました。
初めはいかにも"翻訳"されている文章に硬さを感じましたが、次第に登場人物それぞれの人柄や顔形が浮かび上がってきて、愛着が湧いてきます。
小柄で鋭く口は悪いけれど面倒見の良いジョージ。純粋なのだけど頭の回転のひどく悪い大男のラリー。昔のアメリカ映画に出てきそうな短気でガサツなカーリー。片腕の老人キャンディと老犬。馬に蹴られたせいで背中の曲がった黒人の使用人クラックス。賢く皆から一目置かれているスリム。
貧しかったりどうしようもなく運に見放されているけれど優しい人や無教養でガサツな人たちの織りなす小さな世界にそこはかとない哀愁が立ち込めるなか、特にスリムの存在には清涼感がありなんとも言えず魅力的です。俳優で言うならJacques Gamblinのイメージです。
農場から農場へと渡り歩く季節労働者のジョージとラリー。ふたりには小さな土地を買うというささやかな夢があります。
ラリーがジョージに、いつものあの話をしてくれと頼むたび、ジョージは夢の土地で動物を飼い土地を耕して暮らすふたりの生活を語ります。
幸福な小さな夢を語る時ですらどうしてか、絶対にこのふたりが幸せになることはないだろうなと感じさせられて、落ち着かない気持ちになります。
よく映画やドラマなどで"死亡フラグが立つ"と言いますが、決して思わせぶりなセリフがある訳ではないのに、全編を通してずっと不幸なフラグが立っているのです。
ジョージとラリーがお互いを必要とする心情が丁寧にあぶり出され、短い物語ながらも人物それぞれに愛着が湧くからこそ最後はただただ哀しさが募ります。
人間とは犯した行為で裁かれるべきなのか、それとも悪意やその動機で裁かれるべきなのかと、今まで考えていなかった疑問を問いかけられる物語でもありました。
『ハツカネズミと人間』 ジョン・スタインベック
ここからはネタバレがあります。
「責任能力」の有無という争点について私は今まで想像力に欠けていたなと、この本を読み終えて考え直しました。
責任能力がなく無罪になる判決をニュースなどで目にするたび、自分が被害者や被害者の家族だったら浮かばれないだろうなと思っていました。
もちろんどんな事件も一緒くたにして語ることはできません。でも例えば、もし『ハツカネズミと人間』のラストのような事件を、ただ新聞で読んでいたら、私はどのように思っていただろうかと想像します。
若い綺麗な新婚の奥さんが、頭の回転の悪い大男に絞め殺された。
それだけだったら、またこの小説を読んだのとは異なる感情を抱いたことでしょう。
ニュースを目にするとき、加害者の顔も被害者の顔も見えていないのです。
レニーは決して悪い奴じゃなかった。悪意は確かになかったのだと思います。しかし自分をコントロールする知恵がなく、不幸にも身体が大きくとんでもなく力が強かった。
頭の回転が悪いのも力が強すぎるのも、本人にはどうすることもできないし、好んでそう生まれてきた訳でもない。果たして彼に自分の行為の責任をとる能力があるのか。
一方で、カーリーの妻はいつも問題ごとを起こそうとしているような悪意ある人物として描かれています。確かに彼女がラリーに近づいたのには意地悪な心があったことでしょう。でもだからと言って彼女のしたことは決して死には値しません。好きにはなれない人物ですが、その死には同情します。カーリーも嫌な奴だけど、銃を手にしてラリーを探しに飛び出す気持ちもわかります。
でもこの小説を初めから読んできて、ラリーとジョージふたりの夢を聞いてきた私はどうしてもラリーのことをもっと悲しく想ってしまいます。
最後は、ラリーへ向けられた銃口に安楽死させられたキャンディの老犬のイメージが重なり、”相手のことを思って命を奪う”と言う選択についても考えさせられます。
果たしてどうしてこうなってしまったのでしょうか。
あの時ジョージがいれば。キャンディがもう少し早く来ていたら。あの夜クラックスの小屋に行っていなければ。カーリーの妻にもっと分別があれば。もしカーリーの手を砕いていなかったら。
でもきっといつかはこうなっていたのでしょう。行き先の決められた線路を一直線に走るトロッコに乗っているような気持ちになりました。
人生には、誰が悪かったのかを追求することが無意味なときもあって、原因を探すことの虚しさが深い哀しみとともに心に残ります。
ただ一切は時の巡り合わせ、なのかもしれません。