講演ダイジェスト 歴史を「歩き継ぐ」こと 『戦場の人事係』への道から教えられて
『戦場の人事係』までの経緯と想い
出会いのきっかけ
石井耕一さんの存在を知ったきっかけは、戦後、沖縄の民間人がほぼすべて収容された収容所の状況を調べている、およそ18年ほど前でした。
沖縄の戦後は収容所から始まったとは言われるものの、肝心の収容所がどのように運営され、またそこでの体験は、沖縄戦における悲惨な体験談の中で、その量は圧倒的に少なく、それゆえに、評価や研究もほとんどなされていないに等しいものでした。
靖国神社に隣接する偕行文庫と呼ばれる場所に集められた証言や手記などをめくっている中で、沖縄戦で生き残った石井耕一さんの存在を知りました。
それをきっかけに、新潟でご存命であられた石井さんのもとを訪問しました。
石井さんは当時、すでに95歳になられておられましたが、記憶は鮮明で、受け答えもしっかりされておられました。
印象は、好意的ではいらっしゃるけれども、とにかく隙のないかた、という雰囲気でした。
僕は、何かを訊ねるということはしません。
目の前の方と「呼吸を合わせる」ことを心がけています。
そのかたの思考の作法、リズム、言葉の使い方(射程)といった、そのかたの思想や発想の「型」がどのように育まれてきたのか、その背景、その心象、そこがどこにどのように広がっていくのか。それを見つめる過程そのものがお相手と向き合うすべてだと考えています。その上で、その方の呼吸と言葉にこちらが合わせていき、自然と語られるのを待ちます。そのかたから「言葉が産み落とされる」のを待ちます。
石井さんと向き合う中でのそれは、具体的には、たとえば沖縄で集めた多くの当時の写真、数多くの手記、そうしたものをお見せし、読み上げる中で、石井さんから発せられた関心と、発せられた言葉に向き合う作業でした。
石井さん自身を取材するという姿勢ではなく、石井さんが置かれた状況を僕なりに追体験し、それを石井さんにお見せし、石井さんご自身での認識や想いといったものが発露するまで、待つ姿勢です。
決して、あの時どうだった?何を思った?どういう状況であった?ということは訊きません。
僕からは文脈を作りません。相手が発する文脈に沿って、言葉の閾値、想像の射程に寄り添って、こちらの言葉と「心象風景」を擦り合わせていきます。
こちらの文脈に相手の言葉を当てはめたものは、僕にとっては「歴史の証言」ではなく、「構成された文脈における穴埋め」でしかないからです。それをどれだけ構成しても、それはハリウッド映画でしかなく、シナリオでしかなく、歴史の証言足り得ないと考えてきました。
それゆえに、言葉ではなく、石井さんの心の文脈、来し方、人生の文脈、そうした「脈」を大切にし、その脈の中で石井さんの言葉と体験を理解するように努めました。
これは石井さんと向き合う時だけの特別な作法として行なってきたものではありません。向き合う相手の言葉は、相手の素直な心象風景の中で理解され、解釈されるべきで、その「脈」にこちらが寄り添うことで、初めて、「言葉の彼方に風景を観る」ことがかなうのだと、そういう作業だと考えております。
ですので、それはメディアの方々がおっしゃられるところの取材とは、おそらく異なるものだとも思えます。
戦後史が紐解かれる時にしばしば言われます、「語り継ぐ」や「聞き書き」というものともちょっと違うのかもしれません。
その人が歩いてきた軌跡を辿るなかで、その人の言葉を理解する旅路であるのかもしれません。
そういう意味では僕の旅路はいつも、お相手の方と「歩き継ぐ」ものであったと、そんな風に言い得るのかもしれません。
今回、石井さんの体験を僕なりに理解できるまで辿り続けた結果、コロナ禍を挟んで、結果的に15年がすぎてしまいました。
石井さんが辿った沖縄の道を、車ではなく、当時と同じように歩き、収容所から投降した場所までを幾度も辿り、石井さんが見た風景と体験が、もちろんすべてではありませんが、僕の体験として消化するまでに15年がかかってしまいました。
同じ場所や道も一度辿るのではなく、春夏秋冬、異なる風景とその時限りの風景を幾度も体感することで、景色だけでなく、ひいては証言者の心象風景が育まれた「経緯」や「過程」に対する理解が深まるようにも感じます。
それを活字にするかどうかではなく、あるいは活字にするために歩むのではなく、理解するために幾度も歩むのだろうと、僕は自分の作業を僭越ながらそう納得しています。
石井さんの体験の文脈を、「時代」「情勢」「情況」という客観的状況・文脈のなかでさらに「踏めるもの」として位置付けるためには、やはり当時の石井さんや日本軍を取り巻く状況、あるいは戦況、それについて米軍側からの視点や捉え方も把握しなければなりません。
日本軍を取り巻く状況、米軍の心理的状態、それらはすべからく、米国の公文書館やスタンフォード、イェール、ハーバードに分散している史料を読み解き、また位置付け、組み立てるなかで理解できます。
これらはおそらく、学生の皆さんがゼミで発表するために準備をする作業と重なる作業ではないでしょうか。
たとえば、日本人の投降後から収容所に移送するまでの状況、収容後の米軍の心理状態、米軍の臨み方(海兵隊を含めて四軍におけるアプローチの異なり)、米軍の姿勢は、当時の作戦立案の背景、実施報告書、さらに複数の体験者らの証言を擦り合わせて“立体的”に解釈することで、初めて僕自身にとっての「踏める話」になり得ます。
石井さんのご証言や体験、記録は、そうして僕自身にとって「踏める話」となったことで初めて「歴史の証言」足りえたと言いうるのではと思えるに至る、そういう作業でした。
だからかもしれません。僕の書くものはいつも、面白くないという評価です。もっと面白く書けるはずのものをこんなにつまらなくしやがってと、よく読者の方からインターネットに書き込まれます。草思社さん以外の出版社の編集者の方々からも、もっぱらそうした評価でした。それ以外の評価を残念ながら、僕自身、聞いたことがありませんでした。
わざわざ大切なお金を払ってご購入いただきながら、力不足ゆえと申し訳なく思っています。
でも、そうした他者から見れば「面白みに欠ける文章や内容」であっても、自分がなしうる作業を愚直に精一杯、妥協なくやることしかできない、僕自身の人生だったな…。
そんなことを考えながら、日本とアメリカ、沖縄を往来しながら、最終的に石井さんのガマを確認したのは、コロナ禍の2021年でした。(上掲の写真、ガジュマルの樹の根本)
戦争を知らない世代が「戦史」を訪ね、「証言」と向き合うことの意味
歴史の証言とはやはり、自分自身で歩き、訪ねることで初めて、その人にとって納得のいくものになるのではないかなと思います。
常に、出来事の容貌は多面ではないでしょうか。だからこそ、事実や状況を捉える証言はより多くのものが残されるべきで、その判断や評価は、是非にかかわらず後世に遺されるべきと考えました。
石井さんのご体験もそのかけがえのないものの一つです。
米国の大学や研究機関、公文書館などで、米国による統治についての非常に多くの史料が残されているのを目にしてきました。しかし、たとえ日本国内にそうした多角的な史料が持ち込まれていても、メディアの方々が報道しうるのは当然、極々一部に留まらざるをえないのではないでしょうか。
歴史の証言は多様であるべきこと。多様な角度からの評価が担保されることこそが、一面からではない物事の、歴史の実相というものを捉える、まさに欠くべからざる作法なのではないかと、石井さんの体験を追認する15年の歳月の中で、僕自身は「識ら」されました。
過程での苦労譚 ?
捜査ではしばしば、臨む姿勢のあり方として、現場百回、現場百遍ということが言われます。「証言」はもちろん、当事者の言葉という点ですべてが価値あるものです。ただ同時に、証言者の心象と心証、二つがあって証言は成り立っていると考えています。
証言を歴史的な史料や現場百回で裏付けること。証言のなかからファクトとして踏めるもの、底抜けしないものであることを確かめ、取材者として心証を追体験することは、時間の経過を経ていたので物理的な困難さがあります。
もう一方の心象、証言者が何をもって、なぜそのように考えて判断したのかという、当時の心象を確認する作業。これは、その当事者に「訊くのではなく聴こえる瞬間を待つ」作業だと思います。それが、上記のように、証言してくださるかたのお人柄や考え方など、相手の呼吸にこちらの呼吸を寄り添わせていく作業だと思います。
とくに、あえて語りたいという意欲や動機のない相手からお話を伺うときには、相手が構えずに、素直な心持ちで本音を明かしてくださるものでなければ、歴史の証言としてはやはり偏りが生じてしまう怖さがあります。
語りたい、という意志は時に難しいものだと思います。「こう語りたい」が「こう語らねばならない」に転じ、そして「こう語った方がいいだろう」に変じる可能性が常にあります。そこに発言者の意図が生まれるからです。
それが時に歴史や事実というものをミスリードする伏線になり得ると思えます。
この度の石井さんのご体験のみならず、僕がこれまで出会ってきた方々や、活字として残してきた方々は、その意味で、決して自ら「語りたくはない人々」であったのかもしれません。
それが同時に、僕自身の仕事の軌跡でもあったように思えます。
同じ風景を共有しようと努めた先にもたらされる、一言、ひと雫の言葉、それは僕にとっては今から振り返れば、こうも言い換えられるようにも感じます。
それは、それぞれの方々にとって飾ることない瞬間に与えられる「人しずく」の言葉と体験を共有することであったのかもしれません。
それを追いかけた旅路となりました。
歴史はそんな無名の人間の「人しずく」の重なりの上に創られているように感じます。
それをあらためて確認することができる。それが、まだ見知らぬ人々との言葉のしずくに接する、かけがえのない喜びであるのかもしれません。
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