作家・七尾和晃の「言葉の彼方に風景を観て」

作家・七尾和晃の「昭和百景」が始まりました。懐かしくもいまだ知られざる昭和をぜひ。公式HPはhttps://sites.google.com/view/kazuakinanao/ 公式Xはhttps://x.com/nanaokazuaki こちらもぜひ。

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マガジン

  • 七尾和晃の世界 昭和百景

    「無名の人々が歴史を創る」を信条に情況と証言を追いかける作家、七尾和晃さんの「昭和百景」が始まりました。懐かしくもまだ見ぬ昭和を、昭和ど真ん中世代から、昭和を知らぬ世代の方々にも。

  • 『観る、物語』 書店に並ばない10行の物語

    無名の人間が歴史を創るー。懸命に生きた一人一人の言葉と姿を刻むー。作家・七尾和晃が30年に及ぶ歳月のなか、訪ね、出会った人々の表情は何を語るのか。ウィキペディアには名前が掲載されていなくとも、市井に生きるすべての人の人生は、唯一無二の物語。

  • 移住・転住の相談クリニック セカンドオピニオンはこちらから

    行く前・買う前・建てる前 そして移った後にー トラブルを未然に防ぎ 後悔しない「秘伝のポイント」を伝授

  • 毒舌!!すっぽん三太夫

    一度食いついたが最後、決して離すまじ。逃すまじ。「世間様」という重箱の隅をつつく。毒舌、でも返り討ち珍道中

最近の記事

忘れられた昭和のフィクサー 上森子鐡をご存知ですか “財界の最上座”編

     明治生まれの「怪人」と呼ばれた男、上森が逝ったのは、バブル最中の暑い日だった。  小池隆一は、自他ともに師匠と認める上森が体調を崩してからほとんど毎日、上森が入院する千葉の恩賜財団、済生会病院に通い詰めていたが、その日だけは、上森の最後の声が届きようもない場所にいた。  海外だったのだ。  上森の枕元には、やはり上森と切りようもない縁のあった三菱銀行の常務など数人が立ち、最期を看取ることになる。  1989年8月16日、88歳で上森が最後の息を吸い込んだその時、上森

    • 祝・映画「海の沈黙」公開 便乗蔵出し 伝説の贋作画家の素顔 『観る、物語』 書店に並ばない10行の物語

      画家を捜しにベルギー・ブリュッセルを訪れた その画家はかつて、ピカソ、ルノアール、ゴッホ、モジリアーニなど、巨匠の贋作を描き、その数は5千枚にも上った 画家の贋作事件は、映画監督、オーソン・ウェルズによって「フェイク」にもなる しかしそのときも画家は表に現れなかった 画家は今、ブリュッセルとモロッコにアトリエを持ち そこで多くのモジリアーニ風、ピカソ風、ゴッホ風…の絵を描く 画家をブリュッセルに見つけてから数年後、モロッコのアトリエに招かれた そこで画家は絵筆をとって、“モ

      • 『観る、物語』書店に並ばない10行の物語 中国・重慶 日本租界の知られざる最後

        ニューヨークかと見紛うその高層ビルの上空を、かつて日本の戦闘機が飛び 未曾有の規模で爆弾を投下した 上海から2 400キロ離れた重慶に、第二次大戦中、日本からもっとも遠い日本租界があった 上海の日本人街がじつは 「租借権」を認められることのなかった"支配 した場所" であったのに対し、長江沿いの「王家沱」と呼ばれたその場所は、租借権が確立された、まぎれもない租界だった その場所から発展を遂げた重慶の町を眺めれば、もはや視えずとも、日本租界の栄華は微塵もなかった 盧溝橋事件を

        • 『観る、物語』書店に並ばない10行の物語 九州・飯塚 人は去ったけど「残ってよかった」と、笑顔で筑豊の母

          筑豊の母と出会ったのは、九州・忠隈炭鉱の跡だった 筑豊に残って本当によかったと、母は言った そこは温かく穏やかで 炭坑の閉山とともに人は皆去って いったけど お父ちゃんと一緒に残って本当によかったと、母は言った 戦後、まだボタ山が石ころだらけで、発生したガスで自然と火がついた 筑豊富士と呼ばれた山は、闇夜にぼうっと赤く浮かぶのだった そんな石ころだけのボタ山にも木が生えて 若者だけでなく年寄りも皆 、仕事を求めて出て行ったきり戻らなかった 母が立つその場所は、今は野に還った

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          40本
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          7本
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        記事

          『観る、物語』書店に並ばない10行の物語 ベトナム ボート難民がたどり着いた「常盤橋」の果て

          2 0 0 2 年 7 月 1 2 日、東京地裁−。懲役20年を言い渡されたブ・バン・ホアは、裁判長をまっすぐ見つめ、ベトナム語で応えた 「控訴しません 」もはやすべてを運命として受け入れようとするかのような、ある種の覚悟さえまとった響きが、耳に奇妙に憑りついた ホアは1 9 8 9 年にベトナムを脱出し、日本にやってきた「ボート・ピープル」のひとりだった。日本定住後は土木作業員をしながら窃盗などを繰り返し、すでにいくつかの前科を持っていた。そして出所後にホームレスとなって日

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          『観る、物語』書店に並ばない10行の物語 沖縄 60年間、封じてきた収容所の記憶

          44年、終戦の前の年、沖縄県名護市・田井等に収容所ができた そこには、兵隊ではなく民間人が収容された 鬼畜米英を信じていた人々は米兵に佉え、山の奥へ奥へと逃げる 捕まれば、男と女、夫と妻は分けられ、それぞれの収容所へと送られた 終戦直後には、田井等の収容所には5万人もの人々が収容される 収容所の男たちは毎朝、トラックに乗せられ作業へ向かう 女たちは金網にしがみつき、荷台の男たちに必死の眼差しを向けた 夫はどこだ 弟はどこだ 息子はどこだ いたっ? いたっ? いたっ あれさっ

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          『観る、物語』書店に並ばない10行の物語 新橋・銀座 東京租界の帝王 その晩年と記憶

          第二次大戦の終戦直後、新橋、銀座は戦勝国民の街となった 一等地として知られる一帯は、日本人の及ばない「東京租界」とも呼ばれる 占領軍のひとりとして降り立った国民党軍の王長徳は、闇市を仕切った そして上海仕込みのアイディアでキャバレー「マンダリンクラブ」を繁盛させ「東京租界の帝王」としてその名を轟かせた 数多くの代議 士の裏のタニマチとしても知られ 自宅玄関に置かれた籠には十円札が無造作に溢れ こう札がかけられていた 「ご自由にお持ちください」 だが、東京オリンピックを機に"

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          『観る、物語』書店に並ばない10行の物語 長崎県・対馬 島から始まる江戸幕府への道

          江戸幕府 への道は、この島の小さな道から始まる 長崎県 ・対馬を治めた宋家の墓へと続く石段は 厳かにして、また賑々しくもある、異国の隊列を永い間見守ってき た 古くは元寇の戦場となった対馬は、のちに朝鮮にとっての日本の玄関となる 大名行列に匹敵する朝鮮通信使の一団は、対馬を渡り京都から滋賀の琵琶湖 を横目に東海道 へと入り、 江戸を目指した その対馬は当時から高い識字率を誇り 字村々の記録は帳箱と呼ばれる箱に収められ守られてきた それは決して外の者に開かれることはない なぜ

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          忘れられた昭和のフィクサー 上森子鐡をご存知ですか 立身・映画人編(ダイジェスト版)

           昭和6年は、日本映画史において、記憶されるべき年となった。それまでの映画はサイレント(無声映画)だったが、トーキーと呼ばれる有声映画の草分け作品『マダムと女房』が、田中絹代主演で公開されたのだ。現代映画の黎明期と言えるその年、事件が起きた。「蒲田撮影所騒動」である。新興の映画会社が、国民的スターであった三人の俳優を松竹から引き抜き、映画界に反乱を起こしたのだ。    当時の映画界はすでに、日活や松竹、東宝と今日まで名の残る企業が顔をそろえていた。  各社とも看板スターを

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          今は「待ちどき」田舎暮らし コンサルで“満ち荒れた”地は、フツーの港区なだけ

           コロナ禍による移住ブームは、ある傾向を地域にもたらした。とりわけ、移住人気が高い…と呼ばれる地域において、それは顕著となった。 コロナ禍移住ブーム以後、地域・地方に溢れたのは、おおむね、以下の属性を誇る人々となったのだ。◯ブランディング&金融・資産コンサルタント◯ベンツGクラス(あるいはレクサスLSかLXクラス) ◯港区民・世田谷区民・品川区民(自己研鑽と自身を“魅せる”ことに躊躇しない人々) もともと、田舎暮らしとは、すでに現役を終えたリタイア組か、働かずに私財の“財政

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          講演ダイジェスト 歴史を「歩き継ぐ」こと 『戦場の人事係』への道から教えられて

          『戦場の人事係』までの経緯と想い    出会いのきっかけ    石井耕一さんの存在を知ったきっかけは、戦後、沖縄の民間人がほぼすべて収容された収容所の状況を調べている、およそ18年ほど前でした。   沖縄の戦後は収容所から始まったとは言われるものの、肝心の収容所がどのように運営され、またそこでの体験は、沖縄戦における悲惨な体験談の中で、その量は圧倒的に少なく、それゆえに、評価や研究もほとんどなされていないに等しいものでした。    靖国神社に隣接する偕行文庫と呼ばれる場所に集

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          賢明なnoteの作家さんは同じ轍を踏まないで ギョーカイ地獄絵巻「ボクが書くのをやめたワケ」あるいは「干されたワケ」

           若い頃の話でございます。   兄弟のひとりから、書簡らしきものを受け取ったのはいつのことだったか。  そんなアホなもんに出向けるか、というおよそセレモニーなるものには絶対に顔を出さないオヤジに代わり、相手方の親族をご接待する要員としてやむなくハワイの結婚式に参列したのを最初で最後に、何十年も顔を合わせていない、子供が産まれたと聞いてもやりとりもない冷え切った血縁である。それにしても、両親も一応は健在の折、いったい何事かと封を切って仰天した。  まがりなりにも文章を書く仕事

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          世界のスイーツを食べ歩いた末に辿り着いた 世界で一軒だけの「味わい」との出会い

           長野県茅野市にある信州大黒屋さんと出会ったのは、偶然からだった。  世にまだ、令和のキャンプブームが訪れる前、友人夫妻と霧ヶ峰キャンプ場に行くことになった。その友人夫妻の誕生日をキャンプ中にお祝いしようと、誕生ケーキをお願いできるお店を探していたときのこと。 若い時分、米国から欧州まで転々としていた頃、各地で名店から名の知らぬ店まで、甘いものがありそうだと見るや、とにかく食べ歩いていた。  その頃はまだ、「甘さ」に繊細さを感じ取るまでにはボクの舌は豊かではなかったのだろう。

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          縄文ヒルズの朝 たった一人の読者様とのお別れ

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          辞世の唄「小さく生き、小さく死ぬ」

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          悲しきかな “出版フィクサー”、産経新聞社・坂本慎平から送りつけられた「トドメのメール」に、涙枯れ果て

           まだコロナ禍が続く、数年前のことであった。 沖縄返還の取材で知遇を得た、産経新聞社の那覇支局長さん(当時)からメールが届いた。  七尾さんに連絡したいという者がいると、そんなご連絡だった。  基本は、人間と出会いが嫌いでないボクは、どんなお相手であれ、まずはご連絡を差し上げてしまう。  今となっては、まずそのオメデタサが常々裏目に出る人生であることを毎度忘れてしまうのが、未熟さの至りなのだろう…  それにしても、コロナ禍で「初対面」なる機会から遠ざかっていたとはいえ、久

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