幸福も不幸も「頑張ってる」も、ぜんぶ自分だけのもの。
世界に疫病が蔓延してから、今まで以上に「誰かの大変な話」が耳に入ってくるようになった。
それを見聞きしていると、無意識に
「自分は恵まれている方なんだな…」
とか、
「こんなに大変な人がいるんだから、自分はもっと頑張らなきゃ。」
とか思ってしまって、自分の弱音や愚痴、悩みをどんどん自分の中だけに閉じ込めてしまうようになった。
一方で、わたしは今年に入ってから、なぜだか精神的にとてもしんどいなと感じることが増えていた。
もしかするとそれは、去年から少しずつ溜まっていたもやもやした感情のせいなのかもしれない。
自分でも驚いてしまうくらい、突然身体に不調が出たり、数分前までは元気いっぱいだったのに急に落ち込んだりする、ということが、やたらと増えていた。
生活や仕事の環境は、数年前より改善しているはずなのに。
目標を掲げて、日々それに向かって前向きに努力しているはずなのに。
周りには、大切な人たちだってたくさんいるのに。
それなのに、なぜだか突然不安が襲ってきて、呼吸が苦しくなる。
たくさん眠ったはずなのに、朝から疲れて動けないことがある。
これって、何が原因なんだろう……?
わたしが辿り着いたのは、あのとき心に書き留めていたはずの、言葉だった。
無意識に浸透していた"他人の軸"
最近、友人と話していて、自分では「他人は他人、自分は自分」と割り切って考えてきたつもりだったけれど、実はそうじゃないのかもしれない、と気づくことがあった。
「わたしはずっと自分のことばかり考えていて、他人のことがあまり考えられない。好きな人には関心を示すけれど、そうじゃない人には、本当に無関心。」
自分ではそう思っていて、悩んだこともあった。
けれど、人と話をしているとき、自分が相手に対して「すごいな」とか「これは自分になかった視点だな」と思うと、必ずその後、しばらく落ち込んでいる自分がいることも、最近ようやく知った。
「もっと、こういう考え方ができるようにならないと」
「あの人みたいに、こんな知識を身につけないと」
そんな風に自分と相手を比べて、自分に欠けているところを補わないと、という思考をしている自分が、そこにいたのだ。
それは、対面で話している相手はもちろんのこと、普段見ているSNSで流れてきた情報に対しても、同じだった。
むしろ、そちらの方が自分ではコントロールできなくて、情報が洪水のように頭や心の中に流れ込んできて、たくさんの「誰かの頑張り」や「すばらしい成果」を見て、
「自分はまだまだ、だめだなあ。」
「もっと、頑張らないといけないな……」
と、無意識に自分を追い込むようになっていた。
「他人は他人、自分は自分」と思っていた頃の自分は、どうやらすっかり姿を消してしまったようだった。
自分の感覚を、"相対的に評価する"癖
一方で、逆も同じだった。
冒頭で書いた、「自分よりも大変な人、苦労している人がいるのだから、自分は弱音を吐いちゃいけない。頑張っているなんて言えない。」という、自己暗示にも、洗脳にも近いような考え。
いつからこんな考え方をするようになったのだろう?と振り返ってみたら、案外昔から持っていたのかもしれない、と気づいた。
大学時代、わたしの周りには、わりと家庭環境が複雑な友人が多かった。
両親が離婚寸前で、毎晩聞こえる喧嘩の声がトラウマになり何度も自殺の方法を調べているという後輩。
お母さんが2人いて、さらには最近恋人がよく家に来て居場所がないという先輩。
家族一緒に住んではいるものの、お父さんの存在を全員で「ないものだと考えている」という友人。
そういう人たちの話をいつも身近で聞いていると、自分が「家族に理解されていない」と感じていることとか、「父親が厳しくて、愛されるということを知らずに生きてきた」ことなんて、とてもちっぽけで、ただ甘えているようにしか聞こえなくて、口が裂けても言えなかった。
彼らに対して、「その気持ち、わかるよ」なんて、自分も同じように苦労してきたことを暗に伝えるような形で、だけど詳細は口にせず、曖昧に頷くことしかできなかった。
だって、具体的な話をしてしまったら、どう考えても相手にとっては「ちっぽけな悩み」なのだから。
もしかすると、それは悩みなんかではなく、自慢に聞こえてしまうかもしれない。だとしたら、相手を傷つけることにもなる。
大切な人を傷つけるくらいなら、自分が傷ついた方が、よっぽどましだ。
そんな想いが強固になって、わたしはいつしか「幸せ」とか「苦労している」とか「頑張っている」といった諸々を、すべて相対的に評価する癖が身についてしまっていた。
幸福とか不幸って、相対的なものじゃない。
だけど、初対面の人や、自分のことをよく知らない人に
「いつも明るくて、悩みがなさそうでいいね。」
とか、
「いいお家で、愛されて育ってきたんだろうね。」
と言われるたびに、傷口にナイフをグサグサと突き刺されているような痛みが伴って、言葉を失い、その場に立ち尽くしてしまうことがあった。
「この人に、わたしの何がわかるのだろう?」
と怒り出したくもなったし、
「わたしはわたしで、こんなに悩んで苦しんでいるのに……」
と、正しく理解されないことに、寂しくもなった。
自分はたしかに、あの人と比べたら、恵まれているのかもしれない。
自分はたしかに、この人と比べたら、幸せなのかもしれない。
そう何度も思い込もうとしたけれど、次第に心が追いつかなくなってしまった。
そんなとき、ある友人からこんなことを言われた。
「幸せとか不幸せとかって、相対的な感覚じゃないからね。それは絶対的なものだから、あなたがどう感じているかが大事なんだよ。それだけで、いいんだよ。」
そう言われて、はっとした。
ちょうどその頃、西加奈子さんの『i』という小説を読み終えたばかりで、同じようなことを考えていた時期だったからか、すとんと自分の中に言葉が落ちてきた。
そうか。幸せかどうかって、誰かと比べて決まるものじゃないんだ。自分と相手を比べた時に、自分の方が恵まれているとか、手にしているものが多いとか、そういうことは、関係ないんだ。
ちなみに、小説『i』では、身も心も擦り切れるような努力を続けていても、最後まで子供を産むことができない主人公の前に、「感情に流されて子供を授かってしまい、そのつもりはなかったから、と中絶を選んだ彼女の親友」が現れる。
主人公とその親友の状況を比べたら、「彼女は恵まれているのに、なんてひどいことを主人公に打ち明けるのだろう」と残酷な仕打ちに叫びたくなってしまう。
だけど、彼女は彼女で悩んで出した答えで、「だって、これはわたしの身体だから。」と、はっきり言い放つ。
この台詞を読んだ時の「はっとした」感覚と、友人に言われて「はっとした」感覚は、同じものだった。
だからこの時、「あ、そういうことなのか」と、納得したのだと思う。
その感情は、誰のものでもない "自分だけのもの"
この時のことを思い返しながら、わたしはもう一度、自分の感情を取り戻したいな、と思っている。
自分が幸せだと思ったら、幸せ。
自分がつらいと思ったら、つらい。
自分が頑張っていると思ったら、頑張っている。
それは自分だけの感覚で、誰のものでもない。
よく考えたら当たり前のことなのだけれど、わたしはすぐ、この事実を忘れてしまいそうになる。
ふと気を抜くと、誰かの基準に照らし合わせて、比べて、「自分は恵まれているのだから…」とか、「全然努力が足りないな…」とか、勝手に引け目を感じて、追い込んで、目の前にある幸せに、目を向けることができなくなってしまう。
本当は、今目の前にあるこの幸せを、見過ごしたくない。
日常に散りばめられている小さな幸せを、ちゃんと見つけて、手のひらでそっと掬い上げたい。
そして何より、そんな自分を大切にしてくれる人を、大切にしたい。
たぶん、この先もまた何度か忘れてしまいそうになるだろうこの感覚を、何度も思い出すことが、できるように。
わたしと同じように、自分の感情や感覚を押し殺してなかったことにしようとして、それもできなくて苦しんでいる人が、少しでも救われるように。
この言葉が届いたらいいな、と思う。
どうかこの先も、自分だけの感情を大切に、ずっと、守り続けることができますように。
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