私と私達の趣味のようなもの。
芋虫は蝶になりました。
けれど、芋虫は芋虫の自分こそが自分だと信じていましたから、羽の生えた姿を信じられず、まだ葉っぱを食べられると思いながら、餓死しました。
心の中で、上のような事が起きている人を見かけることがある。
なんの疑問も持たずに変容するのも、それはそれで危険というか、問題だと思うけれど、強い拒絶は崩壊を招く。
「自分」とはなにか。
可視の世界では肉体こそ自分なのでしょう。
だから、自分を心の自分に似せようと試行錯誤する。馴染ませようとする。一心同体だからと無理をする。だから、溝が生まれやすい。
では、心の世界では?
在るか無いかも定かではない、あると信じて疑わない、ないかもしれないと怯えている、心の世界では「自分」とはなんなのでしょう?
「私は私と私達」
わかるようで、わからないようで、やはりわかる気がするkoedananafusiの使うワード。
「自分」を壊さず、「自分」を護りつつ、「自分」に惑わされないための私の 。
変化を苦手とする元来の性質の妥協案。
私は私が多様である事を拒絶しない。
私は他人から見た私を拒絶しない。
好きか嫌いか。
楽しいか楽しくないか。
シンプルにそんな風に判断はしているが
嫌いだから有り得ないとか、好きだから有り得るとか、そういうことにはならない。
在るものは、在る。
私は私の知らない一面を恐れない。
それが万能かと問われれば、否だけど、使い勝手がいいのは確かだなと思う。
一人で完結する事ができるのも、私としては、使い勝手がいい。
しかも、これは、他人を混じえても崩れにくい。
というのを書きつつ、でも、ま、これ、私の感覚でしかないしなーなどとユルユル思う。
私は私の言葉を疑うように『それは言霊の鎖ではないか?』と問う癖がある。
その問を皮切りに、私達の議論は始まる。
答えには辿り着かない。
というか、辿り着いたら駄目なんだろうと何処かで思っているので、これは趣味のようなもんだなぁと思う。
どんな風に付き合うのかはそれぞれだけどさ、最期まで一緒にいてくれるのは『自分だけ』だから、できれば仲良くしてたいよね。
沢山の私達がそれぞれ楽しいを選ぶことで、だれかも楽しかったら、それはいいことだも思うしさ。
他にもなんか色々話し合ったというか、おしゃべりしてたんだけど、文書にするの大変なんだよね。言葉にしにくいっていうかねー。
だから今日はここまで。
私の体が頑張って書いてくれたので電子の海に流すけど、ほんの一粒の話だよ。