虎穴に入らずんば虎子を得ず(古典ノベライズ後編)
(昨日 ↓ から続き)
その後のいわゆる急転直下は、いま思い出しても僕にはなかなか信じることができません。
なにせ勝ったのは、みんなが馬券を買った3連覇がかかった馬ではなかったのですから。
一番人気のその馬は、第4コーナー辺りまでは確かにトップの位置につけていました。
競馬初心者の僕からすれば、まさか直線に入ってから後続の馬たちがぐんぐん伸びてくるとは思いもよりません。
徒競走や陸上競技とは、まるで様子が違ったのです。
ましてや……ああ、怖かった!
先頭を走るその一番人気が、落馬して、後続の馬群も次々と巻き込まれ、あわやの大惨事寸前だったのです。
幸い死傷は馬にも人にもなかったのですが、その落馬によってすっかり止まってしまった馬群の中を、大穴「イラズンバ」がトコトコトコっとすり抜けて、なんとトップでゴールしたのでした。
当初の予定を変更し、祖父のモットー「大穴に賭けぬなら、富を得ず」を信じて買った僕の初めての馬券は、世紀の万馬券となりました。
*
「ばあちゃん、勝ったよ!」
じいちゃんが万馬券を当てたありのままのミラクルの詳細を、帰宅してなお興奮醒めやらぬ僕は、祖父を玄関で置き去りに、台所の祖母へと伝えました。
ギャンブル好きの祖父の監視を祖母から依頼されていたことなど、このときは頭からすっかり消し飛んでいたのです。
僕の胸の中は、競馬って面白いなという感動でいっぱいでした。
ゆえに、僕の口からは、こんな言葉が追ってするりと出てきていたのです。
「ばあちゃんも、次は一緒に行ってみようよ。馬が走るのって、かっこいいんだぜ?」
競馬初心者の僕の熱心な誘いに、祖母はまったく乗りません。
それどころか「馬じゃなくても、血筋ってあるんだねぇ」と残念そうにため息をついてこぼすのです。
「あたしとじいちゃんの馴れ初めはね、競馬場なんだよ。善之助、あんたが競馬に興味を持ったのは、じいちゃんだけの血筋じゃない。ばあちゃんの血筋も、しっかり混ざっているのさ」
すると玄関からやっと台所へ来た祖父が、抑えきれない笑みをこぼして祖母に声を掛けました。
「なぁ、君子(きみこ)。万馬券だぞ。バカ勝ちしたんだ。お前も来ればよかったのにな」
「なにを言ってるんです。あたしがギャンブルにじいちゃんよりもハマっていたのは知ってるでしょう?」
「ああ。若いころのお前は、ほとんど依存症だったもんな。わはははは」
「危ない、危ない。危ないところには、近づかないのが一番ですわ」
危うい場所には近づかない。
そう宣言した祖母の君子(きみこ)と祖父との思いがけない馴れ初めを、僕はこのとき初めて聞いたのでした。