見出し画像

note日報は『考えてる』と『届ける』のちょうど中間

約1週間経過。
今日考えたことをnoteに書く取り組みを始めて、今日が9日目。良かった、1日で終わらなくて。カレンダーのような見出し画像テンプレにしてしまったがために、1日飛んだら気持ち悪くてサボれないのだ。ちょっと後悔。でも、これで続けられているとこもある。

noteの記事一覧

現在、自己満の世界におります

サボれない…と言っても、私の記事一覧ページをPCで毎日チェックするのはきっと自分だけ。さらに、毎日書いてるnoteの更新日が仮に1日2日飛んだとして、心地悪く感じるのも自分だけ。

また、noteは70%がスマホから閲覧されるという情報を見た。スマホでは見出し画像は小さく右側に表示されるから、そこまでこだわらなくて良いか。やはり文字が主役だ。でも別媒体でシェアする時に見出し画像が大きく表示されるので、その時は画像の影響も大きそうでは?

「note 見出し画像」と調べればたくさん記事が出てくる。もうちょっと真面目にリサーチしたら、改良ポイントがありそう。

9日目にしてそんなことが気になり始めた。


届けたい!から距離を置く

届けたいと思うから、有効な手法が気になってしまう。
もちろん、書いて発信する以上、大切なことだ。誰に何を届けたくて書くのか。どんな人に読んでもらいどうしてほしいのか。さらには、記事を拡散するにはどんな見出し画像が良いのか、何時頃に更新すると良いのか、どのツールでどんな言葉で拡散すると良いのかとか。

ただし、多くの人に届けて広げたいのだとすれば、私のnoteは設計から宜しくない。記事は「今日、考えたこと」というマガジンに集約。つまり、ただの私の日記が並んでるだけだ。ターゲットも特に明確にしていないし、これに困ってる人の役に立ちたいみたいな命題も考えてない。だから触れるテーマもバラバラ。ただその日に考えたことをランダムに放出している。

「長澤まさみの日記」なら良い。今日のファッションを紹介したり、仕事レポートをしたり、ペット紹介してみたり…彼女の日常を構成するすべての要素が関心を集める。

一方、「あおいの日記」という括りで、毎日あおいの日常や思考が綴られても、今日あおいは何を更新するのかしら?と興味を持つのは実家の両親くらいだろうな。

1記事単発で共感いただけることがあっても、私のコンテンツ全体に関心を持ってもらうには、テーマが分散しすぎている。なんせ想定されるターゲットが私の両親、2人だ。(お婆ちゃん入れて3人)

だから、届けて広げたいなら見出し画像のデザインどうこうよりもっと手前で考えることがありそう。

しかし、多くの人に届くかどうかを現時点では重要視しておらず、しばらくこのまま、書いて仕上げて出す、書いて仕上げて出す……を繰り返して訓練をする予定。もちろん、書く以上は多くの人に読んでもらいたい気持ちはあるけれど。

まだ始めたばかり

なぜnoteを始めたのか

届くかどうかは最初は気にしない、と思って始めたものの、いざ書いた記事に「スキ」を付けてもらえすると、すごく嬉しいものだと知った。
最初は誰の目に触れることもなくひっそり陰でコツコツ更新するものだと思っていたので、想像よりも読んでもらえる感覚があり、ちょっと欲が出た。だから、届けるための手法に意識を奪われかけた。なんでnote書いてるんだっけ。

文章や言葉を産む側の経験

私がnoteで文章を書いてみようと思った理由はいくつかあるが、一番大きいのは、「書き手」になることで文章についての考えを深めたいと思ったから。

デザインの仕事をしていて、文章・言葉とデザインとの手の取り合いがとても重要だと考えている。そして、ただ受け手として読むだけでなく、自分自身で言葉を扱うことにも挑戦したいと思った。
言いたいことは同じでも、どのワードをチョイスするのか、言い切る?敢えてぼかす?など……実際に自分の考えを書いてまとめようと思うと、小さな引っかかりと繰り返し向き合う。読んでいるだけではできない体験だ。

届けようとしすぎる→調理しすぎてる?

普段の仕事の中で情報の届け方を考えすぎて、なんだか本質を見失っている感覚があった。手法やツールの最適化に囚われてしまって、起点にある「伝えたいこと」がどっかに行っちゃうような。いや、どっか行っちゃう、は言い過ぎかもしれないが、変な味付けされて素材の良さが失われた、みたいな。良い素材だったのに、濃い味付けで素材なんて何でも良くなっちゃったね、みたいな感じか。

いまいちうまく言語化できないけど。(書くことと向き合うんじゃないのか)

迷走〜


思考の純度を保ちたい

私にとって現在のnoteは、いったん外に出てみましたよ〜という思考の置き場。『考えている』と『届く』の間にある、ちょっといったんここに置いときますね〜みたいな場所。

いびつでも良いので頭の外へ


『考えている』と『言った・書いた』の間には壁がある。

そして『言った・書いた』と『届いた・伝わった』の間にはもっともっと高い壁がある。

だから、頭の中から発したことを丁寧に誰かに届けようと思えば、「書きたいこと書きました終わり!」ではなく、乗り越えなきゃいけないことが多くある。

あえて「いったん置いとくだけ」として、「届けなければいけない」と距離を取ることで、手法に囚われすぎることなく、自分の頭の中にあるものを素直に表現し、思考の純度を保てると感じている。

「ただの私の日記ですから」という、いわばちょっと無責任な思考の置き場noteが、とりあえず今の自分の身の丈に合っている。

公開する意味はあるか?

その目的ならば、自分のメモ帳でも良いのではと最初は思った。しかし、公開することに意味はある。自分しか見られないメモ帳は、自分の頭の外ではあるが、やはなりまだ自分の中だ。

いくら最初は自己満だと割り切るとはいえ、表に出すと思えばそれなりに整理する。多くの人に届けようとしたり、読んだ人に何か特定のアクションを促したりという目的は無いにせよ、何かのきっかけで私の記事の中に入ってくれた人をおもてなす責任は発生するという感覚。
さすがに、自分用に書き殴った自分だけがわかるメモをnoteにコピペしてポチッと公開すれば良いわけではない。

だから、公開して誰でもアクセスできる、でも思ったことをまとめるだけでOK。この緊張感と自由さのバランスがちょうど良い。



いつか迎えに来て届けます

他の方のnoteもよく読むようになった。それぞれの世界観があって、すごく面白い。勉強のために読んでいるというより、純粋に惹かれる発信が多く読み漁ってしまう。みんな自分の創作や発信を楽しんでいて、それを受け入れ合っているような空気が素敵だ。

そして、発信力のある人は本当にすごいなと改めて感じる。自分の考え方やノウハウを形にして外に出し、それが多くの人を惹きつけて動かしている。1コンテンツ単体の爆発力だけではなく、その人の姿勢や価値観が伝わり、発信者としての信頼を積み上げてきた結果。いくつもの壁を乗り越えてその位置にいる。小手先の「上手さ」みたいなものだけでそうはなれない。すごい。

今の私にとってのnoteは、そんな発信からは遠いけれど、デザインと異なる切り口で頭を使える楽しい時間になっている。書くことも面白い。しばらくこのまま純粋に楽しんでみよう。

現在『考えている』と『届ける』の中間に置いてるものの中には、将来の自分が迎えに来てしっかり"届けてくれる"ものもあるかもしれない。その時には、好き勝手書いたものと、届けるために書いたものの比較ができると面白いな。

今日もお疲れ様でした!

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