いーち、にーい、さーん

なかなか寝付けない夜がある。私の場合、物心ついたときから寝付きが悪かったように思う。そんな夜、幼い私に母親はよく「ゆっくり数でも数えてなさい」と言ったものだった。これは小学 1 年生のある夏の日の話である。

その日は暑さもあってか、いつも以上に寝付くことができず、布団の上で何度も寝返りを打っていた。そんなことを小一時間も続けた後だろうか、あまりにも寝付けなかったので、母の言う通り数を数えることにした。

「いーち、にーい、さーん、よーん、ごーお、…」

ゆっくりと数を数え上げ始める。順調に数え上げは進んで行く。

「にじゅういち、にじゅうに、にじゅうさん、…」

小学 1 年生の夏。学校ではようやく 20 までの数を習ったところであった。しかし世間の小学生 1 年生の多くがそうであるように、私も当然 20 より大きい数字を知っていた。

「きゅうじゅうなな、きゅうじゅうはち、きゅうじゅうきゅう、ひゃく、…」

もちろん「 100 」という数字も知っていた。何より数を数えることに関して慣れっこであったため、「 100 」まで数え上げることもこれが初めてではなかった。

「ひゃくさんじゅうなな、ひゃくさんじゅうはち、ひゃくさんじゅうきゅう、…」

さすがに「 100 」を越えると飽きてくる。「眠れない」と横で寝ている母親にぼやく。だが母親は「だんだん飽きてきてそのうち眠くなるよ」と答えただけだった。仕方なく数え続ける。

「よんひゃくに、よんひゃくさん、よんひゃくよん、…」

数える数字は大きくなっていくが、眠気は一向に来ない。「やっぱり眠れない」と母親にぼやく。だが母親はまた「そのうち眠くなるから」と答えただけだった。仕方なく数え続ける。

「はっぴゃくはちじゅうよん、はっぴゃくはちじゅうご、はっぴゃくはちじゅうろく、…」

ついには自分の中で数え上げたことのない領域にまで突入した。だんだんと自分が何をしているのかも分からなくなってきた。「眠れないよ」と母親にぼやく。だが母親はとうに寝入ってしまっていた。

「きゅうひゃくきゅうじゅうなな、きゅうひゃくきゅうじゅうはち、…」

そして「きゅうひゃくきゅうじゅうきゅう」を数えた次の瞬間である。私は次に数え上げるべき数が分からなくなってしまった。「きゅうひゃくきゅうじゅうきゅう」に続く数字が確かに存在するはずである。しかし「きゅうひゃくきゅうじゅうじゅう」では何か違和感がある。果たして一体次の数は何なのだろうか。

答えに窮した私はしばらく考えた後、眠っていた母親を叩き起こし「きゅうひゃくきゅうじゅうきゅう」の次の数を尋ねた。

「あんた『せん』って数も知らないの?『きゅうひゃくきゅうじゅうきゅう』の次は『せん』に決まっているじゃないの」

眠りを邪魔された母親の答えは何とも冷たいものだった。だがこのとき私は何とも言えない深い感情に襲われた。その感情は、今思い起こしてみると「達成感」に近い感情だろうか。いや、それよりも「感動」に近い感情であったような。

私はこの当時、間違いなく「せん」という数字を知っていた。「せん」と言う数字は「ひゃく」という位の次の位で、「 1000 」と書くことも知っていた。しかし「せん」という数字を体感したのはこのときが初めてであった。私はこのとき初めて「せん」という数字を理解したのだった。形容しがたい私の感情は、きっとこの「初めての理解」に起因するものであったのだろう。それは何かを深いところで理解したときに生じる「喜び」だったのかもしれない。

それから今日に至るまで 20 年近くが経過した。その間に小学校・中学校・高校・大学において、様々な面で多くのことを学んできた。その度に私は物事を理解する楽しみや喜びを味わってきた。ところが、と思うのである。小学 1 年生の時の「『せん』を数えた喜び」に勝る知的な喜びには一向に出会えない。この 20 年の間に「知る喜び」に慣れてしまったのだろうか。私は多くを知りすぎてしまったのだろうか。私にはもう何かを深く理解する機会が与えられないのだろうか。そんな風にさえ思ってしまうことがある。

そんな風に思ってしまうとき、勉強や仕事を億劫に感じてしまうとき、 私はふと「『せん』を数えた体験」を思い出す。あのとき程の喜びは得られなくとも、今何かを学ぶことで新たな喜びが得られるのではないか。その小さな喜びを大切にしようではないか。そんなことを考えながら、私は毎日机に向かっている。

「喜び」にも様々な種類の「喜び」があると思われる。新しいことができた「喜び」、物事がうまくいった「喜び」、そしてもちろん合格の「喜び」。どの喜びも私にとって大切なものであり、正直私には序列をつけることができない。しかし三年生たちが今、改めて「何かを知る喜び」を噛みしめたいと思っている。

さて、今宵も何やら寝付けそうにない。布団の中でゆっくり数を数えてみることにする。

いーち、にーい、さーん、よーん、ごーお、…。

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