勉強の哲学 来るべバカのために 2024年
2017年発売 千葉雅也先生 「勉強の哲学」。
購入は2017年9月、おそらく2017年〜2018年にかけて1度は読んだ本です。
当時も衝撃の大きさを鮮明に覚えていましたが、2024年に改めて読み直して、改めて同著の素晴らしさを強く感じました。
読み直しながら2つの重要ポイントを思いましたので、
その感想をシェアさせていただければと思います。
① “勉強”の副作用
重要なポイントの1つ目は、“勉強をしたときの副作用”を書いている点です。
もう少し正確にいうと、勉強の中でも「ラディカル・ラーニング(深い勉強)をしたとき」の副作用に触れられています。
補足として、ラディカル・ラーニングの定義を記載します。
以後、同段落では勉強=ランディカル・ラーニングを意味。
勉強の副作用を考えたことありますか?
私はこの本に出会うまで全くありませんでした。
勉強を始めたけど、三日坊主的ですぐやめたちゃう人。
実は勉強による副作用のせいかもしれません。
それは、、、
勉強をすると、
“ノリが悪くなる”
“周りから浮く”
ということが起こります。
本著の別の言い方をすると、“言語偏重は人”になる状態です。
私は、この副作用を聞いてすごくホッとしました。
2017年当時、会社でのモヤモヤ感が溜まり、漠然と色々な情報に触れ考え出している頃で読書や動画による情報収集に時間の割き始めです。
いつからかはわかりません。
が、学生時代の友達や会社の仕事などについて、違和感を感じ出していたからです。まさに“ノリに合わなくなる”感覚です。
それは、上手く言えないのですが、話を前みたいに合わせられない感覚や話していても面白くないと感じる時間が多くなったことを覚えています。
同著によれば、勉強によって、今までの“ノリ1”が破壊され、新たな“ノリ2”を作り出そうとしていた過程にいたと。
振り返れば、私は友達のことを、友達は自分のことを“キモい(異物)”と感じる時期だったと思います。
なので、この“キモさ”に耐えられないと勉強をやめてしまう。
友達もノリをコロコロ変えているような人達でないとすると、余計そういうことが起こると思います。
“キモさ”と向き合いながら進んだ先、それが“来るべきバカ”。
キモさを含めて自分なりに消化した状態です。
まさに2024年から振り返れば、2017年から時間が掛かりながら“来るべきバカ”へ
確実に進んできたんだと実感しました。
他者からキモく思われることに抵抗感がある人もいると思います。
でも、この副作用を知っていれば、気にせず勉強を続けられるという意味で、重要なポイントだと感じました。
② “ラディカル・ラーニング”の必要性
重要なポイント2つ目は、“ラディカル・ラーニング”の必要性です。
ラディカル・ラーニングは確実に私達の人生に充実感を感じやすくしてくれます。
ただややこしいのは、本著の冒頭でも書かれていますが、“ラディカル・ラーニング”なしでも楽しく生きていくことは可能ということです。
ですが、“ラディカル・ラーニング”なしの生き方を本著では以下のように表現しています。
仕事でも人生でも充実度や幸せ度において重要な指標に“自己決定権”あります。
誰かに指示されたり、強制された“やること”より自分で“やる”と決めたことの方が前向きに取り組めます。
“周りに合わせて働く生き方”でも楽しく生きることは可能かもしれませんが、体現することは簡単ではありません。いや、ほぼ不可能に近い。
2010年代に以降「VUCA」という言葉がビジネス界で使われるようになりました。
変動性 不確実性、複雑性、曖昧性、これらの英語の頭文字を繋げた言葉です。
外部環境の変化が激しい中で、中心となる価値観を持ちながら、柔軟性を持って向き合えるかが、個人や会社に求められます。
それが良いか悪いかはわかりませんが、そういう世の中になっているし、これからもしばらく続きそうなことは間違ありません。
そういう意味でも“ノリ1”を壊し“ノリ2”へ移行しようとする心持ちはまさしく現代に必要不可欠なことだと思います。
勉強の哲学を子育てに活かす
ラディカル・ラーニングが日常に取り入れられちゃう子どもに育ってほしい。
この本を読んで心からそう感じました。
それと同時に思ったこと。
日本では大人がそもそもラディカル・ラーニングを実践する人が少なすぎる問題があります。
なぜ、大人はラディカル・ラーニングをしたくならないのか?
それは、“勉強”というワードの持つ意味や印象が良くないからという結論に行き着きました。
“勉強”=学校の勉強=義務教育にカリキュラムをこなすこと。
この印象が強すぎるのではないでしょうか。
しかも、欲求のコントロールの難しい子どもの頃に興味もないし、面白くもない“学校の勉強”が強制的に開始されます。
本人の意思と反した宿題というものが出されて“学校の勉強”と向き合うことになります。
“学校の勉強”という1つのカテゴリーの成績で勉強に向いている・向いてないという自己認識が出来上がります。
でも、社会に出れば、“学校の勉強”なんて大したことではありません。
“勉強”はもっと幅広い意味で捉えると全く違う感覚になると思います。
“勉強”を前向きに捉えない親から子どもへ同じようなスタンスが伝染します。
だから、まず、親が“ラディカル・ラーニング”を実践すべきです。
所詮は“学校の勉強”はたかが“学校の勉強”でしかない。
少し社会的価値が高く設定されている分野ですが、この成績が悪いことと人生の楽しさみたいなことは全く別物だと。しっかり説明をする親でありたい。
子どもにはいい意味で“勉強”を楽しんでほしい。誰に何を言われようと自分の感覚に従ってラディカル・ラーニングを習慣化してほしい。
勉強の哲学を読んで心からそう思いました。
長い記事にお付き合いありがとうございました。
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