【書評】『イマジナシオン』toron*歌集
あちらこちらの評ですでに書かれていることと思うが、
一首の立ち姿が美しく完成されている歌が多く、
メモしていたらメモだらけになって、困っている。楽しい困惑。
真っ白いジグソーパズル落ちており ではなくすべて花びらだった
果てしない夜をきれいに閉じてゆく銀のファスナーとして終電
その喉に青いビー玉ひと粒を隠して瓶はきっと少年
その街のLoftの袋を提げたとき灯りのひとつになれた気がした
作者が「何かを何かに見立てる」とき、想像もしなかった情景が鮮やかに立ち上がる。
1首目は歌集冒頭の歌。ぱらぱらと散り敷く花びらをジグソーパズルに見立て、「ではなく」でつなぐ。
直喩でも隠喩でもないつなぎ方が、少し捩れたようなイメージを生んでいる。
同様に、街を走る終電車を銀のファスナーと見立てたり、ラムネの瓶を少年と見立てたり。
ラムネは、ビー玉が喉仏に思えた、ということだろうか。
青い色、清々しい味も想起され、少年のイメージが出てきたのだろう。
4首目は、主体が街に馴染んでいく過程でLoftで買い物をし、
明るい黄色の袋を提げたときの感慨を詠んだもの。
灯りのひとつ、という見立てが少しはかなくもあり、印象的だ。
ちなみにこの歌を読んで、俵万智さんの
「大きければいよいよ豊かなる気分東急ハンズの買物袋」
(『サラダ記念日』)の歌を思い起こした。
あの歌の意気揚々とした感じとは違って、
この歌の慎ましくはかない感じは、時代を表しているようにも思える。
アルフォートまず海を噛むわたしたち少しことばを使い過ぎたね
会うまでの日をていねいに消してゆく手帳のなかに降りやまぬ雨
おふたり様ですかとピースで告げられてピースで返す、世界が好きだ
「見立て」の話と少し似ているが、作者の目の付け所は独特だ。
1首目のアルフォートはチョコレート菓子だが、
そこに描かれた帆船の方ではなく、作者は海を切り取る。
2首目は手帳に斜線を引いているのだろう。
その斜線を斜めに降り注ぐ雨と捉えている。
3首目は本当はピースではなく「二人」を表しているのだが、
それをまるでピースサインを送り合っているように捉える。
実際に見ていても切り取りにくい世界を、作者は丁寧に掬い取って歌に変えてゆく。
きのうまで別の誰かの場所だった回転椅子を一段上げる
なんにでも、頑張りますってコーラしか売らぬ自販機みたいにきみは
久々の定時退社でこの部屋の窓が西向きだったと気づく
Amazonの箱の微笑を踏みつける いいひとはもう終わりにしたい
歌集の後半に入って、より強く連作を意識した作品が増える。
上の四首はその中の「わたしは街の細胞だった」という章から引いた。
職場詠であり、残業が常態化している会社での日々を詠んだもので、とても心に響いた章だ。
1首目の「別の誰か」はどこへ行ったのか。辞めてしまったのか異動になったのか。
その場所に、当たり前のように置き換わった主体の奇妙さが際立つ。
4首目の下句は、主体の正直な気持ちがとても直接的に語られている。
主体は自分のことを「いいひと」と言っているが、
この「いいひと」は、例えば上司からの無理難題を断れなかったりする「いいひと」なのだろう。
終わりにしたいけれど、自分の性格をそう易々と変えられるわけもなく
Amazonの、あのにやっとした口元のようなマークを踏みつけるのである。
ちょこちょこ登場する古風な言葉遣い(秋日傘・潤びゆく・購う・悍馬など)がアクセントになっていること。
「わたし」と「ぼく」が歌集の中で自在に出てきても読者を混乱させないこと。
「アルフォート」や「ポン・デ・リング」「キリンレモン」などの商品名を、ここぞという場所で巧みに使うこと。
この歌集の特徴を挙げると切りがないので、最後に一首引くにとどめたい。
氷結と花火を買ってきみと行く道のすべてが夏の往路だ
私自身は、歌を作る時にあまり自分の年齢は意識しない、
というか実年齢の自覚が足りないだけなのだけど、
「夏の往路」は若いなぁ、カッコいいなぁ、私なら復路になってしまうのかなぁ(いやいや、まだ往路の後半と思いたい)・・・
一読覚えてしまう、きらめきつつ切ない歌が沢山ある、そんな歌集。
(2022/2 書肆侃侃房)