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【書評】『花』奥田亡羊歌集

生きること、輪廻、働くこと‥様々な方向から己の存在を揺さぶられる、そんな歌集だった。
またボカロPのtamaGOとの競作があったり、総合誌『短歌研究』の企画「平成じぶん歌」の一連、様々なテーマ詠など、実験的な作品も多く、静かな語り口ながら起伏にとんだ一冊。

歌集中の短歌は基本的に、意味で切れる箇所で行を変えた、2行分かち書きになっている。
私はあまりこの表記方法での歌を読んだことがなかったため、とても新鮮だったし、読みやすかった。
Ⅲ章だけは1行(この歌集では)21文字で自動的に2行目に移る表記で、時折見かける表記法。
あとがきで、作者はⅢ章は1行書きと述べているので、
作品としては1行で、歌集の中では便宜上2行になっているのだと解釈した。

鏡の奥にひと月ぶりの髭を剃る
空には竜の匂いがした

冒頭の1首。竜の匂いとはいかなる匂いだろう。
嗅いだことのある人はいないが、私にはいい匂いとは思えない。
獣の、生臭い匂い。
結句の字足らずは「匂い、がした」と読むことでリズムのある7音になる。
ひと月ぶりに髭を剃って顔をあらわにして、何が始まるのか。
明るいようで不穏さもある、ここからこの歌集へ誘ってくれるような1首である。

山からは山の匂いが流れきぬ
定時制高校の夜の運動会

赤い玉を握り少女は立ち尽くす
入れるのが怖い、こわい玉入れ

綱引きにあっさり負けて
十人が仰向けになる 嬉しそうなり

きょう会いしひとりは光、ひとりは風
ながき日暮れを揺れる穂すすき

作者はこの頃、定時制高校の自立支援の相談員をしていたと連作冒頭にある。
様々な背景を抱えた定時制高校の学生に、作者が温かく寄り添っている感じが伝わってくる一連だ。
1首目。山からは山の匂い、とは当たり前のようであるが
夜の深閑とした雰囲気が、さあっと伝わってくる。
そこでこの校舎だけが明るく光り、運動会が行われるのだ。
2首目。少女が玉入れの何に怯えているのかは明示されないし
少女が理由を話さなければ、主体にもわからないことだ。
しかし、楽しいはずの玉入れを、現に恐ろしいものと捉えている少女が存在する。
何事にも「必ず」はなく、玉入れが「楽しくない」者もいる。
3首目はほっとできる歌。
綱引きにあっさり負けてしまったチームのメンバーが勢いで仰向けになりつつ
それが嬉しそうに主体には見えたのだ。
勝敗より、一つのことに力を合わせて取り組んだ爽快感があったのだろう。
もしかしたら最初は嫌々だった運動会かもしれないが
こうして楽しむことができたのだ。
4首目。作者は相談員なので、学生たちが相談に来る。
「光」と「風」は、学生の名前に含まれていた漢字なのだと思うが
それを自然現象のように主体は振り返る。
どちらも希望を感じさせる言葉だ。
相談に来るということは、何か困難を抱えているのだろうが
主体はその先に「光」や「風」があるように願っている。
願いながら日暮れの穂すすきを眺めている。

開きたる口が小さく「あ」と言えりはじめての息すいこむ前に

こんなにも血まみれになり一ついのち産みおおせしかほそく息する

三階の窓辺に抱けばまぶしそうに目を細めおりこれが世界だ

蕎麦屋より蕎麦を茹でいる匂いせり町はあかるく夕曇りして

前の世も来む世も離ればなれにて子を抱きつつ見るお月さま

1行書きのⅢ章の歌。
作者に子供が生まれ、父となる様子が綴られる。
1首目。作者は出産に立ち会い、生まれてすぐの赤ん坊を見ている。
赤ん坊はこの世に生まれて初めての息をしようと、空気を吸い込む、
その直前に「あ」と声が出たのだ。
その傍では出産を終えた妻が細く息をしている。
出産は作者も驚くほど「血まみれ」になることだったのだ。
3首目は少し落ち着いて、作者は病室で子供に窓から外を見せている。
「これが世界だ」と言うとき、世界はまだ美しく眼前にある。
世界が美しい状態は、しばらく作者について回り、
蕎麦屋から蕎麦を茹でている匂いがするだけでも楽しい。
そして5首目では、前世も来世も一緒にはいられない(と作者の思う)子供を抱いて月を見ている。
ここだけではなく、歌集全体を通して、輪廻に多く言及がある。
それは作者の深いところにある人生観を、色濃く映し出しているようだ。

平成十一年(一九九九)
東海村JCO臨界事故。
被爆した作業員二人が五九日目と二一一日目に死亡した。
にんげんの心いつまで保ちいしか
青い光を見て死にしひと

九月、アメリカ同時多発テロ事件。
午前二時のテレビの空を飛行機が
音なくビルに突き刺さりたり

「平成じぶん歌」の一連から。
1首目。詞書から東海村JCO臨界事故を詠んだものとわかる。
とてもとても不安を掻き立てられた一首だ。
(99年のことだということにも驚いた。そんなに前のこととは思えない。)
被曝して亡くなった作業員は、いつまで人の心を保っていたのか。
「にんげん」「ひと」とひらがな書きであることで、より一首に不安・不穏が満ちる。
2首目はアメリカ同時多発テロを詠んだ歌。一首前の詞書から、2001年の出来事だ。
こちらも「音なく」が不気味で、でも実際にあの映像は「音なく」であった。
それが「本当のことではない」ような気持ちを呼び起こしたことを覚えている。
偶然、私はその一月前にアメリカの友人宅へ遊びにいっていたのだが
翌月には世界が一変してしまった。

グローブを選ぶに迷いいたる子の
まっすぐに響く「これ」と決める声

木漏れ日を弾いて初夏の草原に
お前の投げる白球が来る

生きる日にいくたび顕たん
白球をぱしっと受けて笑い出す顔

成長した子供とキャッチボールをしている歌。
やはり子供の歌は明るく響くのだが、
3首目の初句二句に表れているように、
やはり作者は「生」を少し俯瞰して生きている感じがある。
それは歌集の最後に収められている一編の詩にも表れている。

私はもうすぐいなくなる。
(これもお前のいう「もうすぐ」なのだが)
そのことを悲しんではいけない。
娘よ、
お前と見る世界がどんなに美しかったか。
(「娘よ」一部抜粋)

作者にとって、この世はいっとき他者とともにある
はかない世界なのかもしれず、
そしてそれは実際、真実なのだろう。

歌集を通して、人間の所業を悲しみつつ、また人を強く信じる、アンビバレントな作者像を感じた。
そしてその、どちらかに傾くことはしない。できない。
そのような作者の姿勢を感じる歌集であった。

フラワーなビューティフルなり
青空の下であなたと抱き合っていた

                    (2021/12 砂子屋書房)


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