【書評】『雪麻呂』小島ゆかり歌集
人、人でないもの、動物、昆虫。
沢山の登場人物がゆきかう歌集だが、騒がしいわけではない。
優しく、はかなく、温かい。
全編を通して、わかりやすいシンプルな表現の歌集。
その分、読者の胸にすっと入ってきて、
気づけば様々な感情を手渡されている。
ひかり濃くたまるまひるの薔薇園にひとつひとつの棘生きてをり
白鳥の池に雪ふりゆきのなかにやはらかく立つ天然の頸
三羽ゐて二羽きて五羽きて一羽発ちみな飛び立てる鳩のなりゆき
生くる蟻が死にたる蟻を通過する夏のいのちの無限数列
おろしたてのかがやく翅をひるがへし七月のわかき揚羽蝶くる
植物が多く出てくる歌集は多いが、この歌集はそれにもまして
動物や昆虫が数多く登場する。
と言いつつ1首目はバラを詠んだ歌だが、まるで一つ一つのバラの棘が
呼吸をして身体を伸ばしているような感じを受けて、ここに入れた。
作者は、様々な場面で細部に目を行き届かせ、
それをくっきり鮮やかに歌に詠みこむ。
2首目は池に雪が降ってきて、視界が白く覆われるなかで
白鳥が悠々と浮かんでいる様を思わせるが、
あの白鳥の長い首を、「やわらかい天然の頸が立っている」
と見立てたところがとても美しく、質感まで伝わってくる。
3首目、主体は公園かどこかで、飛んできては去ってゆく鳩を見ているのだろう。
その出入りを正確に数えあげるところに、そこはかとないユーモアを感じる。
4首目。蟻の歌はこの歌集中に沢山あるが、生きて歩いている蟻が、死んでいる蟻を、
特に何の感慨も見せず(と人間には思える)、歩きすぎていく様を見て
いのちの無限に続く数列を想像するこの一首が、特に印象に残った。
数列という数学用語が突然出てくることにもはっとさせられる。
5首目の揚羽蝶の歌。蝶の「若さ」は実際にはわからないかもしれないが
主体にはこの蝶が元気で若々しく見えたのだろう。
「おろしたて」の「かがやく」翅と言葉を二つも費やして、
その情景を際立たせている。
「七月」というだけで、初夏の眩しい太陽光まで感じさせる。
椎の花にほへば夏の雨が来るだれかわからぬ人肌のあめ
遠く近く雨中になにかこゑ聞こえ あるいは雨になりし人びと
あさがほの明日咲く花はどれかしら夜空にひそむ死者たちの指
人びとのたましひ熟れてうまさうないちじく並ぶ秋暑の露店
ゆきかへるブランコたのしゆきかへるたびすれちがふだれかれのかほ
冷えわたる夜の澄みわたるかなたよりもうすぐ天の雪麻呂が来る
人でないもの。それは死者なのかもしれないし、
それともまた違うものなのかもしれない。
歌集の中には、そういった非存在の存在が色濃く感じられる。
1首目、2首目は巻頭歌とそれに続く歌。
「人肌のあめ」という表現だけでもユニークだが
その人肌(の温度ということだととった)も、誰の人肌かわからないのだ。
何となく、人が亡くなって天へ昇って、やがて雨となって・・・という循環を想像するのだけれど
それが特定の、身近な誰かというわけではなく、
誰かわからないというところが、平等な感じもあって、印象的だ。
そして次の歌で、やはり主体は雨になった人を想起している、とわかる。
遠く近くに声も聞こえるという。
ここでもやはり特定の誰かではなく、むしろ沢山の死者の声を聞いているように思える。
3首目ははっきり「死者たち」という言葉が登場する。
まるで空から死者が手を伸ばしてきて、この世の朝顔の蕾を
いじくっているような、親しみやすさと怖さ。
「どれかしら」という軽い言葉が、ど真ん中にあってどきりとさせられる。
次の歌の「たましいが熟れてうまさう」という表現にも、同様の
親しみやすさと怖さがあるように思う。
どうやら作者は、この世とあの世の境目の壁が薄いのかもしれない。
ちょっと足を伸ばしたらあの世で、死者もぶらりとこの世を訪れることができるかのようだ。
5首目はブランコに乗っている歌だが、ここでも「だれかれのかほ」は
もう亡くなってしまった人々の顔を想起させる。
「ゆきかえる」のリフレインで、ブランコを漕ぐことによって
二つの世界を、身軽に行き来しているような雰囲気を感じさせる。
6首目は歌集のタイトルにもなっている「雪麻呂」が登場する歌だ。
この言葉は作者の造語とのこと。
これも、もうすぐ降り出しそうな雪を思っている情景だが
「冷えわたる」「澄みわたる」のリフレインが軽快だからか、
天からこの世にあらざる者がひょっこりやって来るかようなイメージが伝わってくる。
死にたいと言ひ生きたいと言ふ母の胸にひらかん夜のあざがほ
とれさうな母の釦をつけなほす七月のあをい銀河の底で
息子もうわからぬ姑と手をつなぎ 歳月は花束とピストル
捨てて捨てて生きんとおもふ夕焼けのそらに老母を捨てるときまで
作者は実母と姑の介護を長らく続けており、
介護にまつわる歌も多く収録されている。
家庭の中のことは外からはなかなか窺えないし
誰一人、何一つ同じことはないと思うので、とても軽はずみなことは言えない。
言えるのは、その状況にも作者は詩情を持って臨もうとしていて
いや、詩情を交えてやっと気持ちを緩和させているとも言えるだろうが
その詩情があるからこそ、それを媒体として読者は作者の気持ちに寄り添ったり
感情移入したりしやすくなるということだ。
夜には現実的には咲かないけれど、母の胸に咲く朝顔や
母と二人漂流しているような「あをい銀河の底」。
歳月が花束であり、ピストルであるという捉え方は
強烈であり、でもとても共感を覚えるものでもある。
4首目は同じ連作中の歌から、実際は母の荷物を捨てている状況とわかるが
最後には母そのものも捨てる時がくるだろう、と主体が思い巡らせていることが、切っ先鋭く胸に迫る。
いつそ牛を引いてゆきたし炎天の渋谷スクランブル交差点
なげやりになれば胃腸にちから充ち汗だくだくでカレー食べたり
農場に牛見にくれば堂々と冬の貌あり冬の尻あり
あたらしき冷蔵庫ふるき冷蔵庫すれちがひたり玄関前で
すぐに弾むこころとからだ叱られて訓練中の盲導犬くる
これらユーモアの溢れる歌が私はとても好きだし、ほっとさせられる。
例えば3首目、牛はいつ見たって大体同じだろうに、冬には冬の顔つきやお尻の雰囲気があるという作者。
買い換えた冷蔵庫が新旧すれ違う瞬間を人のように捉える作者。
特に5首目の、訓練中なのでまだ冷静さに欠けて
すぐにうきうきゆさゆさしてしまう犬が、訓練士に叱られる歌は
情景がありありと浮かんで、くすっと笑ってしまう。
これまでのすべてはどこへ行つたのか窓を濡らして凍る星空
ああ雪とふりあふぐときおほぞらの喉へふかく落ちゆかんとす
逆にせつなくて、胸を締め付けられるような2首。
本当に、これまでのすべてはどこへ行ってしまったんだろう。
(2021/7 短歌研究社)