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「普通」とか「変」とか

あるとき、ある瞬間から、「自分は普通ではない」「少し変わっている」と感じるようになった。
具体的な時期は分からない。

ただ、「人付き合いが上手じゃない」とか、「なんか感覚が自分だけ違うな」とか、そういう気分に陥ることが多々あって、そう感じるようになったのかもしれない。


周りの一部の人も“違う”と感じているのか、私の言動・行動を笑ったり、バカにしたりなんてこともあって、少なからず私は他人よりも浮いている存在であった。

いわゆるマイノリティー側をバカにしたり排除しようとしたりする傾向はあったように思う。

もうこれ以上過去の話をすると、心苦しいのでやめておく。



兎にも角にも、どこか変わり者だった私。
出る杭は打たれる状態で、生き残っていくには“普通”になるしかなかった。でも、“普通”という概念は流動的なもので、環境が変われば“普通”も変わっていった。私は、その場限りの“普通”になろうと努力した。

そうしたら、いつの間にか自分軸=他人軸になっていて、他人軸で行動するあまり、自分をどこかに落としてきてしまった。
結果、自分がなんなのか分からなくなってしまっている。

今の自分に残っているのは、その場限りの“普通”が積み重なった、空っぽ人間。

これまで拾い集めてきた言葉や表現で会話をし、これまで盗んできた行動方法で生活していく。誰かから借りたものをそのまま使うネコババおばさん。私というものは私の中にない。それが私な気がする。



それでもまだ、“普通”になろうとしている。流動的でわけのわからない、正体不明の“普通”に。でも、他の人から「普通だね」と言われたら嫌だなぁと思う。なんだか個性がなくて、つまらない人だと思われている気分になる。

ただ、だからといって「変わってる」と言われたいかというと、それも違う。それはそれで、どうしても昔の記憶が蘇ってきて、ネガティブ沼にずっぽりとハマってしまう。また、排除されると考えてしまう。はい、めんどくさい人です。




ほんとうは「普通」とか「変」とか、そんな曖昧なものには振り回されたくない。こういう概念の根っこってどこにあるんだろうと考えると、結局個々人の主観だ。それぞれの身勝手なものさしでしかない。「世間一般」に決められた“普通”とか“変”とかあるけど、あれだってそう考える人数が多いか否かで決まっている気がする。虚構にさえ思えてくる。

そんな不安定なものなのに、このものさしは社会でどっしりと身を構え、マイノリティーに暴力をふるっている。もっと、「普通」とか「変」とか、そんな線引きを越えて一人一人の「個性」をちゃんと見てほしい。そうして、一人一人のことをちゃんと認めてほしい。

そんなこと言ったって、人間は人間のことを相対的にしかみれないから、ありきたりな個性は埋もれて、気に食わない個性は排除されるのかな、、

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