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阿含宗視点の般若心経の「空」-1

「空」を語る4パターン

般若心経の「空」を語る人には、大きく分けて4パターンある。

1. 阿含経、パーリー5部から仏教思想の流れを理解した上で「空」を語る視点

この視点で書いている人、いるのかなあ?
阿含経やパーリー5部と直結した「空」を述べている方はいるかもしれないが、現状では一般的ではない。

なぜならば、一般的な学説は、アビダルマ系の人たちが、ボクからすれば不毛な屁理屈の言い合いを延々と繰り返した挙げ句、龍樹が「空」を提唱したという観点で書いているからです。

この方がたくさん述べられている「空」が一般的な観点、学説です。
難しい事もたくさん書いてあるけれども、仏教を哲学・思想として学びたい方は、ぜひ参照ください。

でも、阿含宗会員信徒視点で言うと、これではちょっと足りない。
足りないというのは「空」は阿含経の仏陀の本当の説法と直接つながるものである、という視点についてです。
これはやはり阿含宗会員信徒が語るしかないので、ボクのnoteの主たるテーマとして書いていきます。

2.大乗仏教思想から「空」を語る視点

諸行無常は「空」の一部分であって、それだけでは足りない。

このグループの人達は法華経その他の知識、視点から語ることになる。
阿含経以降にずいぶんと時間が経ってから、アビダルマ論者や唯識論者が意味不明な分類や定義付けに熱中し、挙句の果てにはお釈迦様が否定したバラモン教のアートマン思想に戻りかけたところを、そうじゃねえよ「空」だよ、と龍樹が語って思想の流れを戻したという経緯があります。

この重要な経緯、流れを理解しないで、自分たちが護持する大乗経典の範囲だけで「空」を語ろうとする人たちもいて、この観点の人達は「空」の正しい理解には辿り着かない。

思想が発展したんだ!という主張する方もおられるかもしれないけど、本当にそうかな?

3.現代漢字の意味で語っちゃう無知で無学な人たち

くう」は「からっぽ」「虚しい」の意味である!と自信満々に語っちゃう人がいるとは聞いたことがあるけども、今でも実在するとは思わなかった。noteを検索すると、割りと簡単に発見できるのではないでしょうか。

「空とは、無いと思えば無いんだ!という思想である!!」と語っちゃっていたら、この手のパターンだ。この考えを推し進めると、ついには「借金も、無いと思えば無いんだ!!!」という熱い処世術になる。実際にそう豪語した仏教者が過去にいたらしい。
借金が無いと思えば無くなるなら、ボクもたくさん借金して、お金を使いまくりたい。

くう」や「しき」という仏教用語が現代漢字の意味と異なるという事を知らずに、これらの説になるほどと思ってしまった人は改めて勉強してもらえれば良いけど、一生懸命学んだ結果、この結論に至ったのならば、これらの人は、ボクの書いた文章は何も理解できないです。

4.般若心経は呪文である!!と語っちゃう脳内お花畑視点

般若心経は「空」という思想の説明書であり論文なのであって呪文じゃないです。

漢訳経典として素晴らしいものだと思うけれども、論文であって呪文じゃない。

でも、それを理解できない人たちが相当数いるみたいで、ボクもびっくりした。まさか当たり前のようにnoteでも力説しているなんて・・・

般若心経が本当に呪文なのだったら、全文サンスクリット語の般若心経を唱えなさいよ。

ただ、この系統の方の中で、潜在意識を書き換えることが重要だということを書いている方がいて、それは阿含宗的に大正解なので、どうしてそういう結論に至ったのか、ボクには全くもって訳が分からない。
これらの方には、さらに一歩進んで深層意識まで書き換える必要があるのだというところまで到達してほしいけど、知ったからと言って自力で深層意識の書き換えまではできないので、なんとも言い難い。

般若心経や「空」を本当にマジメに学びたい人に読んでもらい書籍

ボクは、ここで1と2の分類に所属する方々に伝えたい事があります。

阿含宗開祖の「般若心経瞑想法」という書籍を読んでみてください。

「新興宗教のキョーソサマの本を読んだら負け」と思っている人もいるかもしれない。

そういう人に、ボクは堂々と言いましょう。

あなたの仏教に対する知識、見識は、阿含宗開祖の足元にすら及ばないよ、と。

阿含宗開祖という人は、そもそもは自分の呪われた運命を変えるために仏道に入り、仏教を勉強し、気付けば多くの信者さんが集まってきて、彼らをも救うためにさらに学び、密教門に入って法力を得てさらに人を救い、阿含経の価値を発見して阿含宗という新しい宗派を打ち立て、チベット仏教界にも認められ、頼んでもいないのに佛陀釈尊の本物の骨・真正仏舎利をスリランカ国から授与された。本物の仏舎利が来るということは、お釈迦様本人が阿含宗開祖を認めたということだ。

1986年(昭和61年)4月7日、スリランカの首都コロンボ市(当時)の大統領官邸において、J・R・ジャヤワルダナ大統領閣下から真正仏舎利が阿含宗に授与された

あなたは、この中で、どれかひとつでも阿含宗開祖より優れたところがあるだろうか?どれも足元にも及ばないのに、お釈迦様自身が認めた人であるのに、なのに阿含宗開祖の書いた般若心経の解説本すら読むのを拒絶するのであろうか?それで自分は仏教徒である、お釈迦様が好きである、仏教思想、仏教哲学を学んでいるとお釈迦様に堂々と宣言・報告できるのであろうか?

あおって書きましたけれども、仏教に関する知見、見識を拡げることは間違いない書籍なので、是非とも読んでいただきたいです。仏教史、経典翻訳史、アビダルマ論にまで踏み込む、本当に読み応えのある内容です。それだけの価値がある内容ですので、読まないほうがもったいないです。

3,4の範疇に入る方は、この本を読んでも、難しくて理解できないです。

「空」とは「縁起」である

阿含宗でも般若心経をお唱えするのだが、なぜ阿含宗が般若心経を唱えるのかを理解して説明できる阿含宗会員信徒は、めちゃ少ない。

結論をひとことで言えば

「空」は「縁起」のことである

となる。

「縁起が良い」の「縁起」ではない。

ブッダの縁起論というのがあって

AがあるからBがある
AがないからBがない

という縁起の公式とか因縁論という、そういう世の中の根本原則がある。

超重要な注意点として「縁起」とは、縁に依って生起するという法則であって、これは「因果」ではないということを、まず理解してほしい。

この世の法則は「因果いんが」ではない

因縁果報といって、因と果の間には縁がある

原因があるから結果が生じるのではない

原因があって、原因に紐づく何らかの縁が発生して、その縁によって結果が出る。
そして、原因があっても、異なる縁が生ずれば、結果は変わる。
あるいは、原因があっても、縁が生じなければ、結果は発生しない。

これらは、似たようなことを言っているけど、各々は全く違う。

であるが故に、般若心経の真髄は「色即是空」ではなく「空即是色」にある。
「空即是色」だからこそ、人は救われるのだ

仏教というのは宗教なのであって、思想・哲学・倫理・自己啓発ではないのだから、理屈を超えた力で人は救われるのだという教えがあり、実際に人を救う力があり、実践の修行法がある。
般若心経は「空即是色」にこそ、その本質がある、という教えだ。
このくらい説明できないと、阿含宗視点では、般若心経を理解したとは言えない。

ということを、ちゃんと説明できる阿含宗会員信徒はレアキャラです。

そんなレアキャラな自分が、「空即是色」だからこそ、人は救われるとは、どういうことか?ということをテーマにして、「空」の説明を続きのnoteで書いていきます。

興味がありましたら続きもお読みください。
その2↓


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