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阿含宗観点の般若心経の「空」 2

「空」と「縁起」とは同義である

くう」は「縁起」と同義である。
仏教を学んでいる、仏教徒であると自認していながら、この事を知らない人は多い。知らない人のほうが大多数だと思う。

まず最初にお釈迦様が説いた「縁起論」がある。
お釈迦様が亡くなって数百年経過して、アビダルマ論者と呼ばれる暇人な僧侶たちが、意味不明な屁理屈を並べて、マニアックな定義づけに熱中しているうちに、仏教思想はお釈迦様が否定したバラモン教のアートマン思想に戻りそうになってしまった。
そこに龍樹という人が現れて、そうじゃねえだろ、「空」だろ!と主張して、仏教の思想は踏みとどまることができた。

この全体の流れを知らないで、龍樹の抽象的な「空」の説明だけを見ていたら本質を誤るし、この流れを全く考えず、学ぼうともせず、自分の所属する大乗経典の範囲だけで「空」を考えても正解にはまるで辿り着かない。
ましてや「空」は「縁起」のことで、仏教の大原則、根幹の思想であるにもかかわらず、「空」について説明した般若心経を読誦しない仏教教団が日本にあるという。「空」即ち「縁起」を否定したら、それはもはや仏教ではない。

「空」は運命論で考えれば良い

「空」「縁起論」というのは、この世の中の根本原理、基本の法則なのだから、あらゆる事象にあてはめることができるはずです。
そして一番わかりやすい、とボクが考えているのは、運命論で説明することです。

人間には運命の星、阿含宗では「因縁」と呼んでいるが、目に見えない自分の人生を作用する何かがある。運命の星であるから、個人個人ですべて異なる。
例えば阿含宗では「横変死おうへんしの因縁」という運命の星があると認識している。この運命の星を持つ人は、必ず自殺、他殺、事故死、戦死、災害死、水死、焼死、疫病死、エイズといった人生の終わり方をする。また薬物にも容易に手を出してしまう特徴がある。

現在でも、歩道で信号待ちをしている人に自動車が突っ込んできて、交通法規上全く問題ない場所にいたにもかかわらず、自動車に轢かれて亡くなってしまう人がいる。
この人は、なぜ死ななければならなかったのでしょうか?

突っ込んできた自動車が悪いとか、気づかず避けられなかった方が悪いとか、いつもの時間に外出しようとしたけれど外出する直前にトイレに行きたくなっていつものルーチンが崩れたことが原因なので、外出前にトイレに行くのが悪いのだとか、そういう話ではない。

その人は、なぜ、その日、その時、その場所にいたのか?その巡り合せはいったい、どうして発生したのか?という話です。

運命は変えられないとするならば

運命というものは、絶対に変えられないという考えの人がいる。
変えられない運命は、正確には宿命と言う。

変えられない運命、宿命という考え方は「恒常不変」、あるいは「有」、あるいはアートマン思想であり、この世の法則を「因果いんが」で認識するものである。

交通事故で死んでしまうという運命を持った人は、その運命を持って生まれた以上、その運命を変えられない。
交通事故で死ぬという運命・宿命という原因があるから、交通事故死するという結果が【必ず】生じるという考え方です。
その日、その時、その場所にいたのは宿命で、そこに突っ込んでくる自動車を運転していた人も、また宿命である。

運命を変えられないということは、何らかの修行しても、この運命は変えられないので、努力しても、しなくても、必ず結果は同じということである。

死後に天国に行くのか、地獄に落ちるのか、自分が生まれた時点で確定しており、今生でどのように生きるかどうかは関係ない。だから、まじめに生きても、大勢の人を苦しめて殺しても、行き着くところは同じ、という考え方になる。
なぜならば、運命は変えられないのだから。

「一切有」「恒常不変」のアートマン思想、因果論を人間の運命にあてはめると、こうなります。

ちなみに、この世の中は「因果」の法則に支配されていると考えている人、仏教は「因果」を説いていると主張する人は、この交通事故の事例でよく考えてほしい。
交通事故で死ぬという「因」を持つ人と、交通事故を起こして人を殺すという「因」を持つ人、この2つの「因」があるだけで、どうして「果」が生じるのですか?どうして、その日、その時、その場所で、この両名の組み合わせになったのですか?
それは「因果」で説明できるのですか?

運命なんて無いとするならば

運命の星?運命?宿命?そんなもの、あるわけないじゃん、バカじゃねえの、これだから宗教やってるやつは・・・(笑)

と考える人も多数いると思う。

運命の星とか運命がないとするならば、事例に挙げた交通事故死、これをどう考えれば良いでしょうか?
それは「偶然」で、「たまたま」「運」が悪かった?
「運」は「運命」の一部であって、宗教の分野なのだから、できれば「運」という言葉を持ち出してほしくないのだが、それでも「運」を持ち出すのならば、その「運」の正体は何なのか?運が良いとか悪いというその運なるものを科学で説明できるよう、頑張って考えてみてほしい。

たまたま偶然そこにいた?
ならば「たまたま」とか「偶然」とは何なのか?
というか「たまたま」とか「偶然」は「運」とは違うのですか?

運命や運というものが無いならば、なぜ、その日、その時、その場所にその人がいて、そこに車が突っ込んできて、何も落ち度もない歩行者が死亡してしまうという、その巡り合せそのものが起きたのかという原因を、宗教的な言葉や解釈に依らず科学で説明しなければならない。

そして、この状況に巡り合わないようにするには、どうすれば良いですか?
気をつけます!という精神論、根性論でしょうか?
そこに救いはありますか?

縁起論・「空」で運命を考える

佛陀釈尊は「有(恒常不変なアートマン思想)」でも、「無」でもなく、縁起なのだと説いた。
龍樹も同じく「有」でも「無」でもなく「空」なのだと説いた。

縁起・空というのは、縁に依って生じ、縁がなければ生じないという法則です。
この世の法則は「因果いんが」ではない

因縁果報といって、因と果の間には縁がある

原因があるから結果が生じるのではない

原因があって、原因に紐づく何らかの縁が発生して、その縁によって結果が出る。

色即是空

交通事故で死ぬという運命を持っているから、交通事故で死ぬのではない。

ある人は交通事故で死ぬという「因」を持っている。
またある人は交通事故で人を殺す「因」を持っている。
そこに、目には見えない「縁」という力が作用して、この二人を紐づけ、その日、その時、その場所に巡り合わせてしまう。
その結果、ある人は死に、ある人は殺すという立場になってしまう。
その影響は「報」として、残された家族が苦しみ続け、当人たちも、この業を来世に持ち越して、新しい「因」を生み出す。
これを来世、そのまた来世にも繰り返して止むことなく、六道輪廻から抜けられない。
因縁果報という流れに沿って、繰り返していく。

これを般若心経では「色即是空」という言葉で端的に表現している。
「色即是空」とは、この世のあらゆる事柄「しき」は「空」である、即ち縁起の法則の中にあると説明しているのです。

「空」を「縁起」と捉えて説明している学者さんや僧侶さん、一般の仏教好きな方々もおられると思うが、彼らの大多数はたぶん、ここで説明が終わると思う。

でもこれは「この世の中は、縁起・空・因縁果報の法則で動いている」と説明しただけのことです。
だから何?それを知ったから何なのか?

般若心経には冒頭に、観自在菩薩がこの世は「空」であるとわかったら、全ての苦しみを乗り越えたと書いてあるよ!
今まさに自分も「この世の中は、縁起・空・因縁果報の法則で動いている」と理解したけれど、でも、だから何?
もし、自分が交通事故で死ぬという運命を持っていたとしたら、いつか何らかの縁が発生して事故死するということがわかっただけだよ!
と言われたら、どうしますか?

空即是色だからこそ、人は救われる

「空即是色」とは「縁起・空が、この世の現象を作り出す」という意味です。と、突然言われても、なるほど「色即是空」と何が違うのか全くわからん(笑)という反応が普通でしょう。

「色即是空」は、
原因があって、原因に紐づく何らかの縁が発生して、その縁によって結果が出る
という意味です。

それに対して「空即是色」は
原因があっても、異なる縁が生ずれば、結果は変わる。
あるいは、原因があっても、縁が生じなければ、結果は発生しない。
という意味です。

そんなの、当たり前じゃね?
そう、当たり前。

でも、これを交通事故の事例で当てはめると、当たり前と言うのは難しい。

例えば、原因があっても、異なる縁が生ずれば、結果は変わる。
ある人は交通事故で死ぬという「因」を持っている。
何らかの縁の力が働いて、その日、その時、その場所にいたのだが、縁が少し変わって、ギリギリ自動車が体の横をすり抜けていって死ななかった。

例えば、原因があっても、縁が生じなければ、結果は発生しない。
ある人は交通事故で死ぬという「因」を持っている。
その日、その時、その場所に行く予定だったのだが、急遽別件が発生して、その場所には行かなかった、つまり縁が生じなかったので、死ななかった。

これは、そもそも交通事故で死ぬという「因」を持っていなかったという勘違い話ではなくて、まだ交通事故で死ぬという「因」を持っている状態だけれども、「縁」を変えたから交通事故死するという結果を変えたという話です。

そんな事は、可能なのであろうか?
それは可能なのだ。
なぜならば、この世の法則は「空即是色」だから、きっと「縁」を変える手段がある。そこに救いの道がある。

自分の人生、運命を変えたいと思うのならば、まずは何とかして「縁」を変えて運命の「果」を変える必要がある。

「空」や「縁起」を語る人は、このくらいまでは語ってほしい。
学者さんたちでも、ここまでは語れるはずです。

では、それを、どうやって実現するのか?
ここから先は、宗教の役割です。

「因」と「縁」を変える

仏教というのは宗教なのであって、思想・哲学・倫理・自己啓発ではないのだから、理屈を超えた力で人は救われるのだという教えがあり、実際に人を救う力があり、実践の修行法がある。

理屈を超えた力で人は救われる教えとは、下記の手順です。
STEP 1. 「縁」を変えることで最悪の運命の結果を変える
STEP 2.「縁」変えて最悪の結果が出ないようにしのいでいる間に、悪因悪業を消滅させる修行をすること

これは人間が気合と根性で頑張っても成し遂げることできない。
実際に人を救う力を持っている神仏の助けを得て、「縁」を変え、「悪因悪業」を消滅させていくことになる。

そもそも、そういう力を持った神仏と縁を結び、日常的に力を援助を得られる環境を作り上げる必要がある。
さて、そんな環境構築、いったいどうすれば良いのでしょうか?

ところで「縁」を変えて最悪の結果を防ぐ現象の現れのひとつとして、大地震等の災害に遭遇しても命を落とさない、というものがあります。
時間がありましたら、こちらにも目を通していただいて、さらに考える機会を持っていただけたら、幸いです。

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